#51 (記録)「お茶の話」沢村信一 (元・伊藤園中央研究所)

2018年10月19日
テーマ:「お茶の話」
ゲスト:沢村信一(元・伊藤園中央研究所)

飲用法の変遷~茶葉と飲み方の変化~

会社では分析や研究といった理系のお仕事をされていた沢村さん。お茶の勉強会に行っても歴史をわかる人がいないので、ご自身で勉強を始められたそうです。

■お茶について
現在、われわれが飲んでいるお茶は、
煎茶 一般には、1738年永谷宗円による「宇治製煎茶」から
抹茶 一般には、1211年栄西「喫茶養生記」による記載が抹茶法の始まり
されています。

茶は、つばき科の低木です。学名Camellia sinensisからつくったものがお茶とされていますが、Camellia taliensisからもお茶が作れます。成分として、カフェイン・カテキンを含んでいます。『茶経』に「茶は南方の嘉木なり…」とありますが、原産地は中国雲南省・ビルマ北部・タイ北部の三江併流地域です。この辺りは氷河期に凍らなかったところであり、多くの動植物の原産地となっています。茶葉の大きさで中国種とアッサム種に分類され、アッサム種はカテキン含有量が多く、紅茶に適しています。

カテキンを含む植物には、柿や青りんごがあります。これらは熟すと重合して渋くなくなります。カテキンが残ったまま食されるのはお茶だけです。緑茶、紅茶、ウーロン茶など、様々なお茶がありますが、元は同じお茶の葉です。発酵(酸化)の度合いや製法によって種類が変わってきます。

お茶は次のような工程で製造されます。
1. 摘採  手摘み1芯2~3葉  機械は4-5葉
2. 送風・加湿
3. 蒸熱
4. 冷却
5. 葉打ち
6. 粗揉(そじゅう)
7. 揉捻
8. 中揉
9. 精揉
10.乾燥  水分含有量 5%に

日本では年間8万トン製造されています。

茶色の語源は「茶」。中世までのお茶は茶色でした。日本で昔から使っていた色は、赤青黒白。そのほか、萌黄、紅色など、四季の植物や花、鳥や動物の色に由来する日本独特の色名があります。

茶釜の湯の音や泡も、自然のものにたとえられてきました。
煮え音: 遠波⇒松風⇒雷鳴
見た目: 蟹眼⇒魚眼⇒連珠
利休も、蚯音(きゅうおん:みみず)、蟹眼、連珠、魚眼、松風といった言葉を使っています。

■間違った情報
・テアニン(アミノさんの一種)はお茶のうまみ成分である。
テアニンは、お茶のアミノ酸の45%ですが、うまみの閾値が高くなく、茶のうまみへの貢献度はそれほどありません。
・ほうじ茶は、カフェインが少なく、老人、子供、妊婦でも引用可。
実際のカフェイン量は10%から20%ほど低いが、それほど低いわけではありません。ただし、安価な番茶(秋冬番)などは普通煎茶と比較して50%程度になる場合もあります。ほうじの度合いが高ければカフェインは少なくなります。

■中国の茶の飲用法の変遷
中国では、唐代770年ころ、『茶経』(陸羽)が書かれたころからお茶が広まりました。日本へは、遣唐使を通してこの頃に渡来したといわれています。

唐・宋を通じて、茶は塩とともに専売品であり、莫大な利益をもたらしました。周辺国へはもちろん、シルクロードを通じて西域へも輸出されました。茶は絹に次ぐ交易品でした。

陸羽(唐代)が記した『茶経』は、お茶のバイブルと言われる本で今でも研究対象となっています。それによると、餅茶(銭型の茶)を茶てんで粉砕し、湯を沸かした鍋に入れ、その上澄みを飲んだとされています(煎茶法)。

宋代になると、餅茶(団茶)を刀で削り、茶てんで粉砕し、茶筅を使って練り上げるようにしてから薄めて飲みました(点茶法)。これは上流階級の茶の飲み方で、庶民の茶については記録がほとんどありません。散茶を茶磨(ちゃうす)で粉砕して飲んだと思われます。宋代に茶磨(ちゃうす)が発明され、これが日本の茶の湯に導入されました。

「青唐の馬四川の茶」と言われるように、中原では馬が飼育できないため、西夏の馬と、宋の銀、絹、銭、茶が取り引きされ、「茶馬交易」と呼ばれました。

明代になると、団茶が非常に高価で製造にも手間がかかることから製造が禁止されました(価格は散茶の数倍から20倍程度)。ここから、茶を粉末で飲用する文化がなくなり、煎茶へ移行しました。

■日本における茶の飲用法の変遷

815年の『日本後記』には、嵯峨天皇に茶を煎じて奉ったという記述があります。816年には最澄が空海に茶十斤とともに手紙をしたため、最後の遣唐使(838年)円仁は「入唐求法巡礼行記」を記しました。

鎌倉時代には、栄西が三代将軍源実朝に二日酔いの薬として茶を献上し、体に良いことや製法が書かれた 『喫茶養生記』を一緒に献上したと『吾妻鏡』に記されています。お茶が日本で流行したのは、この後、13世紀後半以降と思われます。

国内にいくつかの茶磨(臼)が現存しています。大和郡山城では城壁に茶臼が使われています。このあたりには石が少ないのでいろいろな転用石の1つとして茶臼が使われたと思われます。
佛隆寺の茶臼は空海が持ち帰ったとされる茶臼ですが、花崗岩製です。花崗岩は硬いので、空海の時代には加工技術がありませんでした。江戸以降のもののはずです。

出石町袴狭からは、出石茶筅(宮内堀脇茶筅)が出土しています。戦国時代の茶筅は7本出土しており、形が残っているものは2本。そのうちの1本がこれです。年代はよくわかりませんが、山名氏と織田軍の戦いときと考えると、1569、1574、1580年のいずれかではないでしょうか。

岩倉城跡出土茶筅(1559年)は、年代が確定できる一番古い茶筅。一乗寺谷遺跡出土茶筅(1573年)は、年代が確定でき形状が保たれている最古の茶筅です。これらはすべて、織田信長に攻められて滅びたときに埋もれたものです。

■茶の湯と煎茶

茶の湯は、信長、秀吉、家康が政治に使ったことから広まりました。信長は、名物狩りを行って古今の茶器を集め、領土の代わりに褒賞として使いました。

茶頭の流れを見ると、千利休は、名物や絢爛に反発し侘茶を大成しました。古田織部は、武士の茶(ほうげもの)を目指しましたが、家康によって切腹させられたので江戸時代に脚光を浴びることはありませんでした。ふたりの切腹を見てきた小堀遠州は「綺麗さび」として知られています。

明治維新になると、士官していた大名家や武士がなくなり、茶の湯の家元が困窮しましたが、女子教育の一環として再び盛んになりました。

■煎茶への流れ

隠元が明から鉄の釜で新芽を炒る釜炒り茶の製茶法を伝えます。また、18世紀に永谷宗円が宇治製蒸し茶を発明したとされますが、本人が書いたものはありません。実際に煎茶が飲まれるようになったのは江戸末期です。

小型の茶碗(湯呑)が現れるのは18世紀後半になってからで、それ以前の茶碗の底には擦過痕がみられます。これは、 マッチ棒のような茶筅を振って飲用したためと考えられます。

■茶と食生活

和食はユネスコ無形文化遺産に登録されました。「日本人の伝統的な食文化」ということですが、食事に重要な役割を果たしている「茶」も登録を目指しています。

和食の発祥は、室町時代の本膳料理、庖丁式で、これが懐石料理につながっています。和食文化の成立以前、食事は本来人間が生きていくためのエネルギーを摂取することが目的で、そこにはだんらんの場やリラックスの概念はありませんでした。

鎌倉以前の茶は、薬として中国から伝わり、庶民には広がりませんでした。室町以降は、遊興、だんらんの一環として、上流階級や庶民に広がりました。

戦後の貧しい時代を脱却し、豊かな時代への過渡期となった1970年代には、ファーストフード、ファミリーレストラン、コンビニが登場し、さらにはレトルトフードなどの調理革命が起こりました。調理の簡略化とともに個食(孤食)が問題視され、家族の団らんも崩壊しました。「豊食」から「飽食」に移った時代でした。この時代に日本人は、飢餓感、季節感、ハレ・ケの区別、食事規範などを失いました。40歳以下の人たちはそれ以前を知らずに育っています。お茶の消費量も減少しました。

振り返ると、お茶の飲み方は400年ごとに変わってきました。1200年前に日本に茶が伝来し、800年前から抹茶文化がもたらされ、400年前には煎茶の製造が始まりました。そして、現在。ペットボトルのお茶や、茶殻の出ないインスタントの粉末茶が登場しました。お茶を簡便に飲む方法は昔からありました。集大成がペットボトルなのかもしれません。

#51(案内) 沢村信一 氏(元・伊藤園中央研究所)「お茶の話」

2018年10月19日
テーマ「お茶の話」

第51回 但馬コネクション」のご案内

10月は、静岡より沢村信一氏(元・伊藤園中央研究所)をお迎えして「お茶の話」というテーマでセッションを進めて参ります。

私たちにとって、普段当たり前に飲んでいるお茶ですが、お茶についてどんなことをご存知でしょうか。お茶そのものについては、あまり考えたことがないのではないでしょうか。
今回は沢村氏に、日本のお茶文化についてお話を伺います。

日本人は、いつ頃から、どんなお茶を、どのように飲んで来たのでしょうか?

中世、近世、近代、現代におけるお茶の流れはどんなものか。
お茶といえば、緑茶、紅茶、烏龍茶、抹茶、麦茶、ハーブティなどがあります。
そこで、茶の木の種類、茶葉、栽培、製法、飲用法など、さらに中国と日本の違いについても学びます。

お茶について一歩踏み込んで、知り、楽しんでみませんか。
たくさんの方の参加をお待ちしております。

沢村信一氏プロフィール
1953年、洲本市生まれ。信州大学大学院修了後、企業で医薬品の基礎研究。1996年に(株)伊藤園入社、お茶の分析などに従事。その他、食品微生物、抹茶の物性研究、中世の茶生産、茶臼や茶筅の調査研究。

日 時: 2018年10月19日(金) 19:00~22:00 (受付開始18:30)
場 所: ドーモ・キニャーナ(豊岡市日高町江原)
ゲスト: 沢村信一 氏(元・伊藤園中央研究所)
テーマ: 「お茶の話」
参加費: 3,000円
※ 講演後、立食交流会があります。
※ 参加申込は、info@tajimaconnection.com までメールでお知らせ下さい。
※ 参加希望の方のみご連絡ください。(不参加のご連絡は不要です)
(先着40名様) (「満席」のお知らせはe-mail、HPでお知らせします)

#50 (記録)「人の気持・土地の気持」冨田玲子(象設計集団)

2018年9月21日
テーマ:「人の気持・土地の気持」
ゲスト: 冨田玲子(建築家・象設計集団)

記念すべき50回目のゲストは、但馬コネクションの会場「ドーモ・キニャーナ」を設計された象設計集団の富田玲子さんです。
(一部、司会者とのやりとりをまとめています)

■富田さんのこと
1938年生まれ。父は戦争で亡くなり、母は日本初の女性大使としてデンマーク大使を務めました。主に育ててもらったのは祖母ですが、麻雀大好きで毎日出かけている変わった祖母でした。母もよく遊びよく働く人でした。講演では「Girls be ambitious and patient」と言っていました。

東京教育大付属高校から東大理科2類に進学。理2は理学部か農学部が普通の進路でしたが工学部に行くルートがたまたまあったので、なんだか面白そうだと思って理1へ。東京大学工学部建築学科を経て、日本で初めての女性東大卒の建築家になりました。

大学院は丹下健三先生のゼミで、代々木総合競技場を手掛けるときにお手伝いさせていただきました。学生も1案ずつ出せたので、油粘土でステゴザウルスのデザインを作りました。その後、早稲田大学の吉阪隆正先生の研究室に移りました。

注)丹下健三は、新旧都庁舎、オリンピック競技場、広島平和記念館、目白カテドラルを手掛けた日本を代表する有名建築家。吉阪隆正の代表作は八王子大学セミナーハウス。世界の風土を研究してその土地になじむ建物をつくることで知られています。

そこで出会った仲間と象設計集団を作りました。Tomita、Higuchi、Otakeの3人の頭文字を取ってTHOとしたのですが、言いにくいので動物の象になりました。1971年に始まったので、あと3年で50年になります。共同設計を旨としています。

「心地良いくらしの場」をつくりたいとの思いで始めましたが、振り返ってみると確かにそうだったと思います。

■人の気持ちに合うこと
人は五感がのびのび働くときに気持ちが良いと感じます。また、そこに「居場所」があることも大切です。ワクワクしない「枠枠建築」や、自分がどこにいるかわからない不愉快な場所、墓石群のような建築は人を気持ち良くさせません。オノマトペで気持ちの良さを分解してみましょう。

こっそり すっぽり ぬくぬく

人間と空間の親密な関係を表します。
体に合う自分の場所やスケールの多様性といったことも大切です。埼玉県の笠原小学校は、活動にちょうど良いスケールを意識し、板、畳、布など、足触り、手触り、尻ざわりが気持ちの良い材質を使っています。

ぺたぺた ひたひた ふわふわ つるつる ざらざら どろどろ

地球がふくらむ、穴ぐら願望もあります。

もっこり こんもり にょきにょき

風と光が通り抜ける。

うちはうち、そとはうち。

きらきら すけすけ そよそよ ゆるゆる あいまいもこ

名護市庁舎は、中と外がなんとなくつながっていて、うちでもない外でもない場所になっています。日本の縁側も半屋外のあいまいもこな空間です。

広い世界の中にどうやって小さな建物を入れていくかという視点もあります。

ぐにゃぐにゃ うね~うね~

と、山や川に呼応したい。

だん だん だん!

いろいろな高さにあるくらしの場。各階それぞれに部屋があってそれぞれの庭がある建物もあります。ドーモキニャーナも周囲と同じようにだんだんに作りました。

なぞなぞ なつかし~い くすくす うふうふ

土地の記憶、思い出、連想、冗談も取り入れます。

■土地の気持ちに合うこと。
ここにしかない、作ったのではない、その場所から生まれたのだと思える建築に。
名護市庁舎、世田谷用賀プロムナード、宮代町進修館と笠原小学校、台湾の宜蘭縣庁舎などの写真を見ながら解説をうかがいました。

■ドーモ・キニャーナができたプロセス
ドーモ・キニャーナも同じように「心地よいくらしの場」として、人の気持ちや土地の気持ちに合うように設計しました。地勢を読むところから始まった図面づくり。そこからこのホールのアイデアも生まれました。何十枚もの図面を引き、模型もたくさん作って日差しなど検討しました。どんどん新しいアイデアが生まれ、図面づくりだけで2年かかりました。玄関に大きなケヤキがあります。ハンガー(木)で食べさせてもらっている家ということで、木を植えることは最初から決まっていました。斬新なデザインですが、昔の家の窓や壁など懐かしいものも処々リサイクルして使われています。

 

但馬コネクションもこの空間があってこそ。第2部ではもうすぐお誕生日を迎えられる富田さんのお祝いサプライズも交えつつ、この空間をつくりだしてくれた富田さんに感謝の意を新たにしました。

#50(案内)富田玲子 氏(建築家・象設計集団)「人の気持・土地の気持」

2018年9月21日
テーマ「人の気持・土地の気持」

「第50回 但馬コネクション」のご案内

9月は、富田玲子氏(建築家・象設計集団)をお迎えして「人の気持・土地の気持」というテーマでセッションを進めて参ります。

富田玲子氏はドーモ・キニャーナの建築設計をして頂いた「象設計集団」の創設メンバー。

「但馬コネクション」を始めるきっかけは、会場となる「ドーモ・キニャーナ築20週年パーティ」(2012年10月)での富田玲子氏のプレゼンでした。建築家、地元の職人、但馬内外の友人、知人など多くの人たちが一同に介して、再会を喜び、たくさんの新たな出会いが生まれました。

今回は但馬コネクションの第50回記念として、ご当人の富田玲子さんに登場していただきます。

象設計集団の「7つの原則」。
「場所」「住居とは?」「多様性」「五感に訴える」「自然を楽しむ」「あいまいもこ」「自力建設」
これらのキーワードの意味するものは何か。

住宅、小学校、美術館、公民館、老人ホーム、遊歩道、温泉施設など、地域に根ざした多様な空間を生み出し続ける富田氏の、建築に対する思想、建築設計のプロセスを語っていただきます。

人の気持ち、土地の気持ちを込めた空間とは何か?
地域に根ざした建築とは何か?

一緒に、考えてみませんか?
たくさんの方の参加をお待ちしております。

                記
日 時: 2018年9月21日(金) 19:00~22:00 (受付開始18:30)
場 所: ドーモ・キニャーナ(豊岡市日高町江原)
ゲスト: 富田玲子 氏(建築家・象設計集団)
テーマ: 「人の気持・土地の気持」
参加費: 3,000円
※ 講演後、立食交流会があります。
※ 参加申込は、info@tajimaconnection.com までメールでお知らせ下さい。
※ 参加希望の方のみご連絡ください。(不参加のご連絡は不要です)
(先着40名様) (「満席」のお知らせはe-mail、HPでお知らせします)

#49(記録)「ローカル&グローバルの可能性」中貝宗治 氏(豊岡市長)

2018年6月15日
テーマ:「ローカル&グローバルの可能性」
ゲスト: 中貝宗治(豊岡市長)

「地方創生」は人口減少対策です。豊岡市の人口は82,250人ですが、このまま何もしなければ30%減ってしまいます。この量の破壊力は無視できません。目標を設定すること、そして減ってもなおも元気な街をという二段構えが地方創生です。

有配偶女性数100人あたりの出生数は22%増えています。1組の夫婦が持つ子供の数は増えているのに子供の数が減る。これは、女性の数が減っている、しかも未婚率も増えていることが原因です。高校卒業時に8割が外に出ますが、10代で失われた人口の40%しか帰ってきません。しかも未婚率も増えている。この繰り返しで人口減少が起きています。

なぜこれほどまでに帰ってこないのか。社会的・経済的・文化的に「貧しい地方」と「豊かな都市」という強烈なイメージがあります。地方は貧しくてつまんない。閉鎖的でチャンスも出番もないと。男性は半分帰ってきていますが、女性は落ちています。豊岡は若い女性に選ばれていないことが数字で見て取れます。「若い女性に好まれない自治体は滅びる」と平田オリザさんも言っています。

町が女性に期待していませんでした。期待をされていないところに帰っては来ません。ちゃんと期待をしているという町をつくっていかないといけません。
また、地方に暮らすことの価値そのものが選ばれていない。つまり、やるべきことは「地方で暮らす価値」の創造です。これが、地方創生の「創生」に込められた意味です。

豊岡市の旗印は、「小さな世界都市 ~Local and Global City~」。人口規模は小さくても世界の人々から尊敬され、尊重される町という意味です。このような町はヨーロッパにはいくらでもあります。グローバル化の進展で世界中が急速に同じ顔になりつつあるということは、「固有なもの」が輝くチャンスです。また、世界が急速に小さくなっています。つまり、小さな町でも直接世界とコンタクトを取ることができる。このような中で、世界に通用する「ローカル」を磨く必要があります。

「小さな世界都市」は人口減少対策の柱だけではありません。豊岡市は、12年かけて豊岡を小さな世界都市にするための基本構想を策定しました。人口減少、グローバル化、AIの台頭などの荒波を乗り切る旗印が「小さな世界都市」です。6つの推進力でもって小さな世界都市を目指します。

受け継いできた大切なものを守り育てて受け継ぐ
城崎は、大半が明治以降に作られた町ながら江戸時代の街並みを復活させ、少しでも昔の雰囲気を取り戻すことを地道にやってきました。1925年、北但大震災に見舞われた城崎の復興コンセプトは、当時としては最先端の防災対策と「元に戻す」ことでした。木造3階建ての旅館街を復活し、1970年には暴力団を排除。若い女性が来る下地ができ、城崎の繁栄の基礎となりました。浴衣を着て夜女性が歩ける町を必死に守ってきたのです。ただ守るだけでなく、城崎の魅力をもっと強める努力もしてきました。「共存共栄」のかけ声のもと、町全体でもてなしをすることが徹底されてきました。
外国人宿泊客はこの6年間で40倍になりました。日本平均に比べて豪州・北米・ヨーロッパからのお客さんが多い。彼らは日本の文化に触れたくてわざわざ来ているのです。閑散期をインバウンドで埋め、通年雇用の創出につなげていて、若者の魅力的な雇用の場を創出しています。観光消費額は12.2億円。一億円企業が12個あるのと同じです。

2009年6月に副市長を公募しました。求める副市長像は「優れたコーチ」です。市役所の弱い点であった「コスト意識」「戦略性」「世の中の変化に敏感に反応する感度」をカバーする人材を求め、1371人の応募者のなかから真野毅氏を採用しました。
インバウンドには可能性があるが、豊岡市役所にはインバウンド人材がいませんでした。2012年11月、楽天トラベルに人材派遣の打診し快諾を得ました。2013年4月から環境経済部に大交流課を設置し、佐藤暢佑、サマンサ・バロウというインバウンドチームができました。

企業にも職員を派遣しています。日立製作所や楽天、JTB西日本、日本リファイン、三井物産などとも人事交流があります。佐藤君は、豊岡市役所には人々と結びつく能力があると言ってくれました。能力を持っている人や組織と積極的に結びついていく必要があります。

芸術文化を創造し発信
昨年10年を迎えた永楽館歌舞伎。座頭を務める片岡愛之助さんとは絆も深くなり、コウノトリ米の宣伝もしていただいています。
兵庫県が持っていた城崎大会議館を、パフォーミングアーツに特化したアーティストインレジデンス、城崎国際アートセンターとしてオープンしました。地方創生の戦略拠点として市役所が責任を持とうということで市の直営にしています。芸術監督は平田オリザさんです。世界の一流アーティストから続々と応募があり、これまでに25か国94の団体が利用してきました。来年分も8か国16団体から応募があります。ここに来られたアーティストには必ず辞令を渡しています。「観光大使」です。
その平田オリザさんですが、ブログでこんなことを発表されました。1) (主宰する)青年団の本社機能を豊岡に移転する。2) 倉庫は江原に置く。3) ほとんどの稽古は豊岡で行う。4) 平田オリザさんが豊岡に移住する。5) 2022年をめどに、豊岡で世界的演劇祭の開催を目指すという驚くべき内容です。来年の終わりごろになるかもしれませんが、すぐそこの豊岡市商工会館が小劇場に変わります。

コウノトリも住める「豊かな」環境の再生
コウノトリは現在、飼育ゲージに100羽、野外に104羽生息しています。まだ野生復帰の道筋が何もなかった1991年8月、故増井光子さん(元コウノトリの郷公園園長)と話をすると、「できます。世界的価値があります。」と即座に答えてくれました。1994年にはロシアを旅してきました。コウノトリだけでなく、生息する環境を見なければいけないと思ったからです。シベリアの広大な大自然にコウノトリは3000羽しかいません。シベリアはとてつもなく広く、しかし浅い自然。日本は狭いけれど深い自然だと思いました。
ドイツ・リューシュタットにも行ってみました。なぜここにコウノトリがいるのか尋ねると、「それはアルザスの人々がコウノトリを大切にしたからです。コウノトリに対する愛情こそがすべてです」という答えが返ってきました。自然環境だけでなく文化環境も大切なのだと知りました。

環境と経済が共鳴する地域
野生復帰事業を成功させるために経済を味方につけようと策定したのが、環境を良くする取り組みと経済活動が刺激し合いながら高まっていく「環境経済戦略」です。
豊岡市の環境経済事業には、利益を追求する事業により環境が改善される事業(農業を除く)65事業が認定されています。売り上げ規模は69億円です。

農業も、環境創造型農業への取り組みを進めています。コウノトリ育むお米の最大の消費地は、沖縄。綾町有機農業大会やシンポジウムで出会った沖縄最大の流通事業者、サンエーの社長によって販売が開始されました。
2012年に参加した日本食レストランエキスポでは、ニューヨークの「ブラッシュストローク」という日本食レストランに繋いでくれる人がいて、コウノトリ米の発注をいただきました。そのほか、香港、ドバイ、シンガポール、オーストラリアにも輸出されています。コウノトリの取り組みに共感した人が売り込んでくれた結果です。

コウノトリ野生復帰の原動力は、「共感の連鎖」と「そそのかしのバトンリレー」です。ジャーナリストのアラン・ワイズマンは、著書『滅亡へのカウントダウン』のなかでコウノトリの野生復帰の取り組みを紹介し、「本書のなかで最も希望の持てる物語である」と語っています。この物語を聞きたいと、市長や職員が世界各国に招かれています。

今年の8月にイギリスで開かれるバードフェア2018にも出展することになりました。ラン・レヴィ・ヤマモリさん制作のドキュメンタリー『KOUNOTORI』をバードフェアの会長が鑑賞され、世界に紹介したいと出展を打診してこられたのがきっかけでした。まさに共感の連鎖です。
松島興治郎さんは、「昔は川の水より魚の方が多かった」とおっしゃっていました。この世界を取り戻すのが次の目標です。コウノトリの生息地としてのポテンシャルを地図に落とした生息適地マップを作りました。これからは、ポテンシャルBランク、つまり中程度のエリアに力を注いでいきます。

内発型の産業構造/多様性を受け入れるリベラルなまち
企業も豊岡から世界に羽ばたいています。
多様性を受け入れるリベラルなまち、これはまだまだこれからです。今は、障害者と健常者、お互いに慣れる訓練をしているところです。
OTON GLASSという眼鏡があります。読める喜びを目の見えない人にというコンセプトで開発された、文字を読み上げてくれる眼鏡です。豊岡市は日本で初めて制度化し、視覚障害1級、2級の方に提供することにしました。

小さな世界都市の市民を育てる
ふるさと教育、英語教育、演劇によるコミュニケーション能力の向上を三つの柱とする「ローカル&グローバル・コミュニケーション教育」に取り組んでいます。この子どもたちが小さな世界都市を支えていきます。
総合高校でも高校版ローカル&グローバル教育に取り組み、県立専門職大学の誘致も進めています。これは観光マネジメントと文化マネジメントを学べる大学で、2021年度開校を目標にしています。

Localを突き詰めた先にGlobalがあると信じています。

#49(案内)中貝宗治 氏(豊岡市長)「ローカル&グローバルの可能性」

2018年6月15日
テーマ「ローカル&グローバルの可能性」

「第49回但馬コネクション」のご案内
6月は、中貝宗治 氏(豊岡市長)をお迎えして「ローカル&グローバルの可能性」というテーマでセッションを進めて参ります。
豊岡市は、「コウノトリの野生復帰」をシンボルとし、豊かな自然環境の再発見、創造を推進してきました。「環境」と「経済」という一見、相対立するものを、協調、融合させることで逆に成長エンジンとして機能させ、特に農業や観光に大きな成果を生んでいます。
一方で、豊岡市が持つ歴史や産業、文化資源を掘り起こし、市民の地域への愛着、誇りを醸成する「小さな世界都市 豊岡」構想を展開。特に「アートの豊岡」への動きは注目です。
子ども達への演劇をと取り入れたコミュニケーション教育、本物と出会う音楽鑑賞など。
2001年に旧・豊岡市長就任以来、多くの人と出会い、様々な場所を訪問し、対談・講演などの任務を遂行されています。その経験を通して、どのように自身が変化し成長してきたのか、今後の施策にどのように反映していくのか、体験談を交えながらお聴きします。
中貝氏の内面と進化のプロセスに迫りたいと思います。
ローカルとは何か、グローバルとは何か。
その未来はどんなものか、一緒に意見交換しませんか。
たくさんの方の参加をお待ちしております。
日 時: 2018年6月15日(金) 19:00~22:00 (受付開始18:30)
場 所: ドーモ・キニャーナ(豊岡市日高町江原)
ゲスト: 中貝宗治 氏(豊岡市長)
テーマ: 「ローカル&グローバルの可能性」
参加費: 3,000円
※ 講演後、立食交流会があります。
※ 参加申込は、info@tajimaconnection.com までメールでお知らせ下さい。
※ 参加希望の方のみご連絡ください。(不参加のご連絡は不要です)
(先着40名様) (「満席」のお知らせはe-mail、HPでお知らせします)

#48(記録) 「たくさんの方々に助けられて」青木 美恵 氏(自然耕房あおき)

2018年5月18日
テーマ:「たくさんの方々に助けられて」
ゲスト: 青木美恵 氏(株式会社 自然耕房あおき 代表)

20年前、私の主人は建設会社で農地を宅地に替える仕事をしていましたが、バブルが崩壊してからは「お客さんの不利益になるのがわかっているのに勧めることはできない」と悩んでいました。それがある年の12月末、急に「辞めてきた」と。私は目の前が真っ白になりました。当時、子どもはまだ3歳でした。

 

主人は、嘘偽りのない仕事がしたい。自然の力を生かした有機農業をすると言って、京都府農業会議に出向きました。20年前にはまだ有機農業は一般に理解されておらず、「趣味のようなことには手を貸せない」と当初は門前払いでしたが、通い続けた結果、京都府北部の土地を紹介してもらえました。有機農業をやっている研修先が見つからなくて、減農薬の農家さんで研修することになりました。大宮庁舎で住むところを探してみると、空き家を探してくださる方が現れました。

研修先には、減農薬とはいえ農薬をかける仕事があったので、それがいやで1年半で辞め、冬の間に本を読み漁って勉強しました。そして、2001年4月に「自然耕房あおき」として独立。村の方が木の看板を作ってくださいました。そして、国営農地を借り、日の出から日の入りまで2人で草を抜いて抜いて抜き続けました。見かねた村の人たちがまた手伝ってくださったり、いろいろなやり方を教えてくださいました。そこから、いろいろな作物を作り始め、軽トラで週に1回できた野菜を軽トラで福知山にお届けしていました。その間にいろんな方を紹介され、いととめの広野さんとの出会いもありました。

 

さまざまなつながりで売り先が増え、「美味しいね」と言われるようになりました。家のこともちゃんとできないでいましたが、週に2回食事を作ってくださる方や、大阪から手弁当で経営を教えに来てくださる方など、皆さんの助けを得ながら少しずつ規模を拡大しました。

畑を5haに拡大し、従業員も雇って、名のあるお店にも野菜を収めるようになった矢先の2015年11月20日の朝、突然主人が亡くなりました。

これからどうしたらいいのか。でも、これで大阪に帰って普通の生活に戻れると思いました。植え付け後だったので、とりあえず畑にあるものを売ってから辞めようと思っていたら、あの畑を辞めるのはもったいないと皆さんから言われました。ここを出て帰るにも勇気が要ります。親しくなった人たちとも別れなくてはいけませんし、続けてほしい、応援するからと支援の申し出もいただきました。皆さんに支えられてとりあえず半年間、上半期の野菜を育ててみてから考えようと思いました。幸い、従業員さんたちも残ってくれ、取引先も買い続けてくれました。そして、10月頃に今のメンバーと出会って、主人の命日に合わせて株式会社を設立しました。

売上アップのため野菜を作らないといけないのですが、会社を設立したのが冬ということもあって、50mのビニールハウスを2棟建設しました。苗を別に作りながらハウスを建て、3月には売上になりました。

現在、総勢10名で100m×100m×4.5の面積を栽培しています。ファックスで注文を受けて、翌日発送しています。丸ごと食べられ、蒸しただけ、塩だけでも美味しく食べられます。レタス、ルッコラ、白菜、スナップエンドウ、ヒメキュウリ、ワサビ菜、ニンジン…。キンギョソウやスナップエンドウの花、ビオラなど、野菜だけでなく花も食べられます。エディブルフラワーとして出荷します。花びらは見た目に美しいだけでなく栄養価も高いのです。キジやカエルなど、畑にはたくさんの生き物がいます。

カボチャ用にパイプだけのハウスを作り、カボチャのトンネルの中で「畑のレストラン」を開催します。メインはトマトの活け造りです。

主人が亡くなったことも「自然の中のできごとだから」と、起こっていることを受け入れようという気持ちになりました。亡くなったこと自体は悲しいけれど、亡くなったからできていることもある。嫌でたまらなかった農業でしたが、この畑を続けていくことが大事と心の底から思います。続けることが、助けてくれた方々への恩返しです。

メンバーはそれぞれ自分の分野をもち、女性的なさまざまな視点を提供してくれます。素敵なメンバーと日々楽しみながら、みんなで乗り越え、子どもたちの未来を考えた農業を目指していきたいと思います。

#48(案内)青木美恵 氏(自然耕房あおき)「たくさんの方々に助けられて」

2018年5月18日
テーマ「たくさんの方々に助けられて」

「第48回 但馬コネクション」のご案内
5月は京丹後市より、青木美恵 氏((株)自然耕房あおき 代表)をお迎えして「たくさんの方々に助けられて」というテーマでセッションを進めて参ります。

「自然耕房あおき」の初代耕房主が脱サラをし、京丹後市の地で農業を始めたのは、20年ほど前のこと。農薬や化学肥料は一切使わず、真摯に自然と向き合い、長い時間をかけて微生物がたくさんいる生命豊かな土を作ってきました。そしてそこから、みなさんにおいしいと言っていただける野菜ができるようになりました。ところが17年目、彼は志半ばに若くして急逝してしまいます。せっかく長年かけて作った畑の土も、何もしなければ荒れ果ててしまいます。そして何よりも、オーガニック農業で、自然環境だけでなく、経済的にも持続可能な一モデルになろうとしてきたあおきのチャレンジの基盤が失われてしまいます。そこで彼の妻を中心とする女性グループが、このチャレンジを受け継ぐことを決心しました。
「自然耕房あおき」案内より

まず、「自然耕房あおき」の野菜の美味しさに圧倒されてしまう。
(セッションでは採れたての野菜を準備します)

1年を通して200品種以上のオーガニックな野菜、京野菜、エディブルフラワーを栽培。採れたての新鮮野菜を宅配で個人宅へ、また、料亭「和久傳」など有名レストランへ供給している。

「自然耕房あおき」の野菜をかじりながら、女性グループのみなさんの喜び、苦労、夢を語っていただきます。たくさんの方の参加をお待ちしております。

【記】
日 時: 2018年 5月18日(金) 19:00 〜 22:00(受付開始 18:30)
場 所: ドーモ・キニャーナ(豊岡市日高町)
ゲスト: 青木美恵 氏((株)自然耕房あおき 代表取締役)
テーマ: 「たくさんの方々に助けられて」
参加費: 3,000 円
※ 講演後、立食交流会があります。
※ 参加申込は、 までご連絡ください。
※ 参加希望の方のみご連絡ください。(不参加のご連絡は不要です)
(先着 40名様)(「満席」の場合はこのページでお知らせします)

#47(記録) 「私が『民藝』から学んだこと」上野昌人 氏(書籍企画・編集・デザイン)

2018年4月20日
テーマ:「私が『民藝』から学んだこと」
ゲスト: 上野昌人 氏(書籍企画・編集・デザイン)

元々はグラフィックデザイナーですが、東京の出版社で古美術や骨董の雑誌『目の眼』の編集を8年間やっていました。2010年7月に400号記念増刊として「サヨナラ民芸。こんにちは民藝」を刊行。わからないなりに、民藝の過去、現在、未来というテーマで2人ずつの対談3本を企画したものが好評を博し、これがきっかけで民藝との関係が深くなって知らないうちにどっぷり民藝にはまっていました。民藝の「藝」と「芸」という字は、戦後、当用漢字として「芸」に統一されました。

民藝と言えば、柳宗悦です。白樺派で実は中心的な役割を果たしていたようで、雑誌「白樺」でセザンヌやゴッホ、ルノアールを初めて日本に紹介したのも彼です。

関東大震災後、柳は10年間京都に住みますが、この10年が非常に大事です。京都時代、柳は民間の人が作った木喰仏に注目しました。空いている時間は骨董市に通いつめ、貨車4台分のコレクションを買い漁ったといわれています。これが日本民藝館のベースとなっています。ただし、このうちのどれだけが柳の集めたものなのか、関係者がなく、わからない状態です。

今、「民芸」はブームで、お金になると言われています。「民芸」とつけばびっくりするほど売れて商売になります。しかし、これらは柳宗悦のいう「民藝」とは別のものです。津軽のつぎあてなど、もともと親しい人のために作っていたものが、江戸時代、数を作って商売にしていったところから、民芸、そして工芸へと変質していきました。もとは自分や家族のために作られたものであり、その中には「愛」があります。「愛」は民藝の大事なファクターです。手仕事で作ることによって自分も人も救われるという、仏教的な側面があります。柳宗悦の民藝思想の原点もここにあります。


民芸は、民衆的工芸という意味で、日用の器具で安価のもの(=大量生産、ではない)、だれでも手に入れることができ、丈夫で利用価値があるものでした。暮らしの中にある、身の回りの、特に美しいものでないもの。しかし、日本の美は道具の中にあります。例えば、箸は慣れるまでは不自由なものですが、使って慣れていくと自由な表現ができて大変便利です。道具というのはそういうもので、道具をいかにうまく使いこなすかに人間の特徴があります。外に目を向けず、身の回りを見直して、暮らしの中に当たり前にある必要なものに美を見出すことが柳の言う民藝の本質です。見立てを使うこと、既成の体制から価値観を転倒し、新しい価値観を創出しようとする点で茶の湯にも通じるものがあります。

ただ、民藝とは何かという話になったとき、おんたやきの中で1つだけ柳が直感と主観で選んだように、「柳が選んで日本民藝館にあるものだけが民藝」としか言いようのない部分があります。新しいものを取り入れたものが民藝であったはずなのに、柳が「これは民藝」といったとたんに規定されてしまいます。これでは今後劣化していくばかり。民藝の役割は終わったのではないかと僕は思います。民藝は思想として継承されていけばよいのであって、そろそろ民芸を名乗るのをやめてはどうかと。

僕自身は民藝を通じて、違いを互いに認めながら共存していくことが大事と教わりました。欲は行き過ぎるといずれ戦争に行きつきます。「人と争わなくてもいい」というのが民藝であり、本来の日本人ならではの良さであったのではないか。本を作る中でこのことを伝えていきたいと思っています。

#47(案内) 上野昌人 氏(書籍企画・編集・デザイン)「私が『民藝』から学んだこと」

2018年4月20日
テーマ「私が『民藝』から学んだこと」

「第47回 但馬コネクション」のご案内

4月は京都より、上野昌人 氏(書籍企画・編集・デザイン)をお迎えして「私が『民藝』から学んだこと」というテーマでセッションを進めて参ります。柳宗悦の「民藝」という思想が生まれて約100年が経ちました。今なお私たちの心を捉えて離さない「民藝」の魅力について、上野氏に語っていただきます。

今、「民藝」は雑誌の特集でも取り上げられることも多く、セレクトショップなどでも販売コーナーが作られてライフスタイルの一つになっています。しかしそれは本当の「民藝」の姿だといえるのでしょうか。多くの人が「民藝」について語っていますが、それゆえ「民藝」の本質的な部分が分かりにくくなっているような気もします。

「骨董」と「民藝」は違うのでしょうか。「民藝」と「民芸」の文字の違いは?
そしてそもそも「民藝」とはいったい何なのでしょうか。

上野氏からのメッセージ:
『私は究極、「人と争わない生き方」ということを「民藝」や鈴木大拙から学びました。この生きてゆくのが難しい時代に、何か少しでもお役に立てることがあればと念じています。そして
一人でも多くの方たちに柳宗悦や鈴木大拙の本を読んで戴きたいと願っています。』

一緒に学び、考え、意見交換しませんか?たくさんの方の参加をお待ちしております。

日 時: 2018年4月20日(金) 19:00~22:00 (受付開始18:30)
場 所: ドーモ・キニャーナ(豊岡市日高町江原)
ゲスト: 上野昌人 氏(書籍企画・編集・デザイン)
テーマ: 「私が『民藝』から学んだこと」
参加費: 3,000円
※ 講演後、立食交流会があります。
※ 参加申込は、info@tajimaconnection.com までメールでお知らせ下さい。
※ 参加希望の方のみご連絡ください。(不参加のご連絡は不要です)
(先着40名様) (「満席」のお知らせはe-mail、HPでお知らせします)