2019年9月20日
テーマ:「日本画」にいたるまで
ゲスト:澤木政輝 氏 (毎日新聞記者、京都造形芸術大学非常勤講師)
実家が祇園でお茶屋をしていたことから、身近に日本文化に触れていました。毎日新聞学芸部で古典芸能と技術を担当。日本で最も古い歴史を持つ京都市立芸大の創立130年をきっかけに、作家や遺族に話を聞いて足掛け5年間連載を書きました。この連載を通じて得た知識をお話します。
日本画=日本で描かれる絵ではない。
「日本画」というのは、明治以後にできた概念で、洋画が入ってきたとき、それに対する概念として出てきました。それ以前の画は本当の意味での「日本画」ではなく日本の伝統絵画です。今日は、伝統絵画の流れが最終的に「日本画」にまとまるまでをお話します。
そもそも「美術」というのも輸入された概念です。日本にも、ふすまや掛け軸に描かれていた画はありましたが、展覧会芸術的なイメージのアートはありませんでした。日本における「絵師」の位置は、「画家」とは違っていました。生活の中に画がありました。「画工頭(えたくみのかみ)」といって、宮中で画を描く日本最高の絵描きも「画工」と呼ばれていたのです。
明治以降は2つの流れ。実用性と純粋芸術
明治以前、大名から禄をもらったり、神社などに所属したり、商人から頼まれるなどして描いていた絵師は、明治に入るとみんな路頭に迷うことになります。そんな中、京都画壇は、学校をつくり、学校を軸に生き残りを図る動きに出ました。絵は百技の長なり。それを文明開化の世の中で生かし、産業の助っ人になれる人を養成するために、学校が創られました。
もう1つの流れは、純粋芸術の方向です。これは西洋から入ってきた芸術の概念です。
「日本画」の概念の登場
「洋画」という言葉は日本にしかありません。これは、日本人が描いている洋風の画を指す言葉です。西洋絵画と日本絵画があり、日本絵画の中に洋画と日本画があるわけです。
明治になって入ってきた西洋絵画のリアリズムは、日本の画家たちに衝撃を与えました。洋画は対象を忠実に再現することを目的とするのに対して、日本画では、生きとし生けるものに神が宿るという日本の宗教観が表現されます。
日本絵画の展開
大和絵
日本で現存する最古の画は高松塚古墳の壁画です。おそらく中国の人が描いたか、中国の人に学んで描いたと思われます。
日本独自の画が始まるのは、894年の遣唐使廃止からで、大和絵が始まりました。平安時代後期~末期の絵巻物が知られていますが、それ以前のものは残っていません。
大和絵の特徴は、引き目鉤鼻。そもそもリアリティは目指していません。主に室内を描くため、手前よりも奥を広く描く逆遠近法が取り入れられるなど、現実世界にはない描き方です。輪郭線をきっちり描くのも特徴です。油絵は光をとらえて描きますが、大和絵はイラスト的です。大和絵(「土佐派」)は、幕末まで続く流れの1つとして発展していきます。
漢画
もともとの日本の流れに海外からの流れが入ってきて化学変化が起こります。鎌倉時代中期から室町時代初期、中国の宋、元の時代に、主に墨を使う山水画の技法が成立しました。これが日本に取り入れられ漢画として大流行。雪舟など、禅宗の世界を描くのに都合が良かったようです。
漢画の力強い動線に色を貼ると狩野派の和漢合法となります。屏風やふすま絵にピッタリなため、寝殿造から書院造に移る過程で重宝され、絵師は、お抱え絵師として活躍しました。漢画の狩野派として、こちらも幕末までつながっていきます。
琳派
琳派というのが、突然現れます。1615年に本阿弥光悦が徳川家康から京都の北に土地をもらい、一大芸術村を開設し、俵屋宗達らと一大ムーブメントを巻き起こしました。その後も、絵そのものを狩野派に習い、昔の琳派にシンパシーを覚えて描く人々がちょうど100年おきに現れています。「風神雷神図」など同じモチーフで描かれた作品も多いです。琳派は、形をデザインでとらえているのが特徴で、今のデザインにも通じています。薄い絵の具の上から乾かないうちに他の絵の具を重ね濃淡の差をつくる「たらし込み」という技法を用います。
南画
中国の明代、琴棋書画に通じないといけないインテリの余技として、文人画(南画)が盛んになりました。これが日本の江戸中期に入ってきて南画として展開しました。
筆の使い方は雪舟当時の民の漢画に近く、漢詩、詩文の世界を描きます。大事なのは「賛(さん)」(字の所)で、原点となる漢詩があります。職業画家ではない人が余技として描くのが本来ですが、この手の画にはニーズがあり、文人画っぽい絵を描く職業画家が出てきます。江戸末期~明治初期にかけては南画(と洋画)が大流行しました。この手の画はいまだに需要があります。
江戸後期、江戸では浮世絵が全盛期を迎えます。版画によって需要が喚起され、床の間にかけて奉るものではなく、今でいう写真週刊誌的に気軽に手に入れるものとなりました。需要があり、数も刷れるので大流行りしました。
写生画
ほぼ同時期に円山応挙が描き始めたのが写生画です。長崎に入っていた洋画、清から入ってきた細密画に影響を受けました。それ以前は、師匠のお手本を見て描いていましたが、実際に目の前のものを見て写し取るという、リアリティを求める動きに戻り、大成しました。
それまでの日本の画と違い、輪郭線を書かずに、筆全体に水を含ませ薄い絵の具をつけ、濃い絵の具を先っぽだけに付けて描く「つけたて」というのも、応挙が生み出した技法です。もともと狩野派に学んだので狩野派の技法を引き継いでいます。
応挙の20歳下の呉春は、南画を学びましたが、南画にはないリアリティを生み出します。写生画の中に南画的な情感を盛り込んだ画といえます。これが流行り、四条派となります。円山派も四条派も写生画。〇〇派というのは、技法ではなく、画家のグループを指します。
応挙が出る少し前に現れたのが若冲らです。当時は狩野派そのものがつまらないものになっており、いろんな人がもがき、最後に応挙の写生画に至るのですが、その前段階でもがいていた人たちです。彼らは「奇想の系譜」と呼ばれています。
日本絵画の文明開化
京都画壇では幕末にかけてさまざまなグループが活躍していましたが、明治になると学校を作り、京都画壇全体で新しい流れを模索するようになります。洋画の影響を受けて、洋画のリアリティを取り入れていくことになりますが、応挙の写生画が、西洋的な写実を受け入れる土壌となりました
近代日本画の先駆者、竹内栖鳳は、パリ万博の視察でヨーロッパに渡りターナーに触れ、写生というより写意の方向性を見出します。ここから、洋画のリアリズムと対象の精神性を写し取る日本画が成立していきます。栖鳳の「金獅子」には、単なるリアリズムではなく、獅子の内面が垣間見える表情が描かれています。円山四条派のつけたての技法を用い、日本的な線描を使った方法で柔らかさを出しつつ、西洋のリアリティと日本絵画的な対象の精神性を写し取ることで評判となりました。
日本画と洋画の最大の違いは、陰影があるかないかです。大正時代になると日本画にも陰影が取り入れられるようになりました。また、西洋の絵画と日本の絵画の最大の違いは余白のあるなしです。日本の画には余白があります。どこかの世界を切り取ってきたものではなく、実際にあったものを象徴化し、胸の中で熟成して描いたものが日本画といえます。
1回目の「能を楽しむ」の再現も