#48(記録) 「たくさんの方々に助けられて」青木 美恵 氏(自然工房あおき)

2018年5月18日
テーマ:「たくさんの方々に助けられて」
ゲスト: 青木美恵 氏(株式会社自然工房あおき 代表)

20年前、私の主人は建設会社で農地を宅地に替える仕事をしていましたが、バブルが崩壊してからは「お客さんの不利益になるのがわかっているのに勧めることはできない」と悩んでいました。それがある年の12月末、急に「辞めてきた」と。私は目の前が真っ白になりました。当時、子どもはまだ3歳でした。

 

主人は、嘘偽りのない仕事がしたい。自然の力を生かした有機農業をすると言って、京都府農業会議に出向きました。20年前にはまだ有機農業は一般に理解されておらず、「趣味のようなことには手を貸せない」と当初は門前払いでしたが、通い続けた結果、京都府北部の土地を紹介してもらえました。有機農業をやっている研修先が見つからなくて、減農薬の農家さんで研修することになりました。大宮庁舎で住むところを探してみると、空き家を探してくださる方が現れました。

研修先には、減農薬とはいえ農薬をかける仕事があったので、それがいやで1年半で辞め、冬の間に本を読み漁って勉強しました。そして、2001年4月に「自然耕房あおき」として独立。村の方が木の看板を作ってくださいました。そして、国営農地を借り、日の出から日の入りまで2人で草を抜いて抜いて抜き続けました。見かねた村の人たちがまた手伝ってくださったり、いろいろなやり方を教えてくださいました。そこから、いろいろな作物を作り始め、軽トラで週に1回できた野菜を軽トラで福知山にお届けしていました。その間にいろんな方を紹介され、いととめの広野さんとの出会いもありました。

 

さまざまなつながりで売り先が増え、「美味しいね」と言われるようになりました。家のこともちゃんとできないでいましたが、週に2回食事を作ってくださる方や、大阪から手弁当で経営を教えに来てくださる方など、皆さんの助けを得ながら少しずつ規模を拡大しました。

畑を5haに拡大し、従業員も雇って、名のあるお店にも野菜を収めるようになった矢先の2015年11月20日の朝、突然主人が亡くなりました。

これからどうしたらいいのか。でも、これで大阪に帰って普通の生活に戻れると思いました。植え付け後だったので、とりあえず畑にあるものを売ってから辞めようと思っていたら、あの畑を辞めるのはもったいないと皆さんから言われました。ここを出て帰るにも勇気が要ります。親しくなった人たちとも別れなくてはいけませんし、続けてほしい、応援するからと支援の申し出もいただきました。皆さんに支えられてとりあえず半年間、上半期の野菜を育ててみてから考えようと思いました。幸い、従業員さんたちも残ってくれ、取引先も買い続けてくれました。そして、10月頃に今のメンバーと出会って、主人の命日に合わせて株式会社を設立しました。

売上アップのため野菜を作らないといけないのですが、会社を設立したのが冬ということもあって、50mのビニールハウスを2棟建設しました。苗を別に作りながらハウスを建て、3月には売上になりました。

現在、総勢10名で100m×100m×4.5の面積を栽培しています。ファックスで注文を受けて、翌日発送しています。丸ごと食べられ、蒸しただけ、塩だけでも美味しく食べられます。レタス、ルッコラ、白菜、スナップエンドウ、ヒメキュウリ、ワサビ菜、ニンジン…。キンギョソウやスナップエンドウの花、ビオラなど、野菜だけでなく花も食べられます。エディブルフラワーとして出荷します。花びらは見た目に美しいだけでなく栄養価も高いのです。キジやカエルなど、畑にはたくさんの生き物がいます。

カボチャ用にパイプだけのハウスを作り、カボチャのトンネルの中で「畑のレストラン」を開催します。メインはトマトの活け造りです。

主人が亡くなったことも「自然の中のできごとだから」と、起こっていることを受け入れようという気持ちになりました。亡くなったこと自体は悲しいけれど、亡くなったからできていることもある。嫌でたまらなかった農業でしたが、この畑を続けていくことが大事と心の底から思います。続けることが、助けてくれた方々への恩返しです。

メンバーはそれぞれ自分の分野をもち、女性的なさまざまな視点を提供してくれます。素敵なメンバーと日々楽しみながら、みんなで乗り越え、子どもたちの未来を考えた農業を目指していきたいと思います。

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