#60(記録)「但馬に大学をつくる」平田オリザ氏

2019年11月15日
テーマ : 「但馬に大学をつくる」
ゲスト : 平田オリザ(劇作家・演出家)

但馬コネクションも今回で第60回を迎えました。これまでお呼びしたゲストは、但馬内外がほぼ半々。但馬コネクションこそが、「誰かが誰かを知っている」「新しい価値観で繋がり」「出入り自由な風通しの良く」「自分たちでつくり、自分たちで楽しむ、出会いと創造の場」である『新しい広場』(by平田オリザ)になっていると自負しています。
今回のゲストはそのオリザさん。3回目の登場です。今回は歓迎の意味も込めて「豊岡市民の」平田オリザさんと紹介させていただきましょう。

10月に専門職大学の申請が終わりました。これは但馬の3市2町が請願をしてできた県立の大学で、普通の4年制大学です。日本には、演劇をやっている国公立の大学がなく、演劇界の悲願でした。これが実現するなら豊岡に引っ越してきますよと言ってしまい、現在に至っています。県庁準備室には但馬・豊岡の出身者が配置され、スピーディに話が進みました。

豊岡は、「コウノトリでも生きられる」環境と経済のまちでしたが、次は「アーティストでも生きられるまち」が加わります。アーティストのような人間でも生きられる。だから安心してこのまちにきてください、というわけです。

KIACの成功
城崎国際アートセンターは、以前は城崎国際会議場という典型的なお荷物施設でしたが、これが市に払い下げられることになった頃、豊岡を訪れました。素晴らしい街並みが残る城崎と大会議場のギャップ。「まあ、がんばれば大丈夫なんじゃないでしょうか」と言ったところが「平田さんが大丈夫と言っている」と伝わってしまい、リニューアルに関わることになりました。

レジデンスに特化した国際アートセンターとして模様替えした結果、わずか20日だった年間稼働日が330日になりました。世界中の団体から申し込みが来ています。来年度は20数か国80団体から申し込みがあり、この中から15団体を選ぶことになっています。応募団体はほぼ口コミで集まっています。

演劇やダンスに特化したアーティストインレジデンスは世界を見渡してもありません。普通なら滞在費だけでも大きなお金が必要ですが、ここでは滞在費無料で制作に取り組むことが出来ます。そして、パフォーミングアーツは完成後世界中で上演され、城崎のクレジットが必ず入るので、口コミで広がっていくのです。アジアでは、KIACに選ばれたことで助成対象になる国も出てきました。

短期的な成果は問いません。城崎は、『城崎にて』だけで100年やってきたまちです。志賀直哉だけでなくいろんな文人墨客が各旅館に滞在し作品を残してきました。パフォーミングアーツのアーティストによって今度は城崎が世界に広がっていくと若旦那たちと話しました。

毎月のようにトップクラスのアーティストが滞在するので、子どもたちはそれを肌で触れることができる。まさに「この町で、世界と出会う」ことができています。

豊岡の教育政策
豊岡では、コミュニケーション教育の柱として、演劇教育を市内38の全小中学校で実施しています。
教育・子育て政策がきちんとしていないまちは、IJターンに選ばれません。これまで言われてきた「雇用」は十分条件ではなかったということです。工業団地誘致は、男性目線でしたが、女性は、子育て、教育、医療、そして広い意味での文化に惹かれて来ます。

豊岡市が主催して東京で演劇ワークショップを実施したところ、キャンセル待ちの人気でした。関心のある人がピンポイントで来てくれて、そこから口コミでどんどん広がります。演劇は、今、注目されている「非認知スキル(=学ぶ力)」を伸ばすのにも有効とわかっています。

親による子どもへの働きかけと子どもの学力の関係を調べた調査があります。家に本があったり、博物館や美術館に連れていく習慣があると、学力が伸びることがわかっています。英語や外国の文化にふれるように意識することも、世界や科学に関心を持たせることにつながるため、自分で学ぶ力が付き、成績が上がります。

こういったことは、放っておくと東京が圧倒的に有利になりますが、豊岡では公教育の中で保証していきます。

英語教育でも、すべての小学校にALTが配置されています。

ただし、豊岡の考える「グローバル教育」は、世界で戦える人材を育成するためのものではありません。豊岡を世界的に有名にするための教育なのです。東井義雄さんの「村を捨てる学力、村を育てる学力」という考え方がありますが、文科省の推進するグローバル教育は、国を捨てる学力です。村を育てる学力とは、「自らの共同体を守り、発展させることのできる学力」といえるでしょう。教育の質を変えていく必要があります。

豊岡だけでなく、但馬地域のほとんどの高校で演劇教育を導入する予定です。大学入試改革で、国公立の3割がAO入試になるので、コミュニケーション能力は必須です。共同で学べる力が必要となるのです。ほとんどの進学校はこれに追いついていず、但馬が先行しています。

国際観光芸術専門職大学
国際観光芸術専門職大学(仮称)は、定員80人、全学でも320人の日本で最も小さな公立大学です。演劇とダンスの実技が本格的に学べる日本初の公立大学ですが、「こんなところに先生が来てくれるのか?」と言われていました。ふたを開けてみると、何十倍の倍率で40名の教員団が決定しました。中でも、スウェーデン王立バレエ団でプリンシパルを務めた、ダンス界に知らない人はないダンサーの方が、夫婦で豊岡に移住してきます。

「観光」と名の付く大学も日本初ですが、観光と文化がバラバラなのは日本ぐらいなのです。

ウィーンのオペラ座では、毎日違うオペラを上演するように法律で定められています。ウィーンに数日滞在して毎晩違うオペラを観ます。昼は他の都市を観光し、夜にはオペラを観に帰ってきます。富裕層なので、経済効果が非常に大きく、税金で毎日違うオペラをやってもペイできるのです。ヨーロッパでは、どうやって滞在してもらうかに知恵を絞っています。昼と夜では、7~10倍経済効果が違うからです。

家族で旅行するので、家族で楽しめること、子どもと一緒に楽しめること、参加体験型のもの、ハイカルチャー・ハイスペックなものを意識しています。シンガポールも、実はカジノを作ったのは最後でした。シンガポールドルが高くなり買い物の魅力がなくなったときを見据えて、クラシック好きが何度でも来るまちにしていきました。
私は、観光について最も詳しい劇作家だと思います。以前受けた官僚からのレクチャーがいきています。

豊岡市の観光の課題と専門職大学
豊岡市の観光は、城崎がエンジンになっていますが、竹田城、出石、湯村、神鍋、氷ノ山などとの回遊性が欠如しています。また、一泊二食2万円の旅館モデルにも限界があります。海外からの富裕層の長期滞在を呼び込むには、国際観光都市への発展が必要です。それには、昼のスポーツ、夜のアートが必須条件となります。このような企画・運営のできる人材を育成しようというのが専門職大学です。

受験生だけで1000泊、オープンキャンパスで2000泊、入学式、卒業式、発表会で1000泊、学会誘致などで500泊の宿泊が見込まれます。観光業への経済効果大です。

大学は完全クオーター性で、講義・演習のほか、実習・集中講義・留学で学びます。観光やアートには集団生活が必要なので、1年次は全員学生寮に入居します。

豊岡市の子どもは、小学校二年生全員が演劇を観劇。小学校六年生で狂言を観劇します。おんぷの祭典でクラシック音楽に触れ、KIACでの無料観劇や、市民プラザでの演劇創作体験もあります。さらに大学も、ということになります。

日高河畔劇場と国際演劇祭
豊岡では、学習機能(鑑賞事業)を市民会館・永楽館、交流機能を豊岡市民プラザ、創造・発信機能はKIACというように、水平分業しています。豊岡市全体で機能分担する形です。人口が2番目に多い日高には何もありませんが、来年3月に日高河畔劇場ができます。

この劇場では、国際演劇祭を開催します。今年、第0回の演劇祭を実施しましたが、想定の1.5倍ほどの集客がありました。「観光地のポテンシャルをアートで引き出す」と教科書に書いてあるのですが、教科書通りうまく行きました。

アビニヨン演劇祭は1か月にわたって開催されますが、正式招待以外にフリンジといって自由参加できる枠があります。世界中からプロデューサーが集まり、すぐに商談が行われるという、見本市的な役割を果たしています。

日高では、神鍋高原などを利用し、アジア初の本格的なフリンジ型の国際演劇祭を開催します。開催には劇場と宿泊が必要ですが、幸い豊岡には、あらゆる階層が宿泊できる宿泊施設があります。このような環境は、アートフェスや演劇祭で一番活かせます。また、成功のためにはネットワークが必要ですが、KIACが既にネットワークを持っているので、それを活かして呼ぶことができます。

専門職大学の学生は、有償ボランティアとして参加します。ICTを利用した地域通貨の開発をKDDIと、拠点間の移動システムの開発をトヨタモビリティ基金と連携して進めます。演劇祭期間中なら相当思い切った実験が可能です。第0回から、JAL、トヨタ、KDDIがスポンサーとなってくれています。

やりたいのは、人間の顔をしたスマートシティの実現です。便利になれば幸せになるわけではない。便利になればなるほど人は不幸せになります。何のために便利にするのか、理念が必要です。ここでは、「アートを観に行くために便利にする」という理念で進めていきます。

5年でアジア最大、10年で有数の演劇祭にしていくことが目標です。豊岡には無理と言う人もありますが、アビニヨンは人口89,380人、豊岡は79,067人、カンヌが70,400人です。この規模でないとだめなのです。

尊敬する植村直己さんの故郷で人生最後の冒険に臨める光栄に震えています。そろそろ私を信じていただければと思います。

#59(記録)「竹野はいいぞ!〜但馬の自然と暮らす〜」本庄四郎氏

2019年10月18日
テーマ:「竹野はいいぞ!~但馬の自然と暮らす~」
ゲスト:本庄四郎(但馬自然史研究所 代表)

司会:
本庄さんは、生物調査、環境保全、子供の自然体験教育、豊かな自然を次世代に残し、地域活性化を目指すNPO法人「但馬自然史研究所」で活動中。豊岡市の「子どもの野生復帰」活動の先頭に立ち、時には「大人の野生復帰」の指導も行う。

本庄さんの語りをまとめた冊子『但馬の自然と遊び』(但馬学研究会「但馬カルチャーVol.6」1998年発行)の中で、「遊び」とは「定義によって違うが、但馬の自然と遊ぶ中で、生きていて本当に良かったという時間。あるいはその気持ち。」と述べていらっしゃる。さらに「都会は全部がんじがらめで自分では、何もできないところ。」「田舎では水がどこから来て下水がどこに流れていくか、電気がどうなっているかも知っている。自分の存在価値が高い。最も進歩的な生活が実は田舎にあるのではないか」と提唱する。

今回のセッションでは、そんなところをベースに本庄さんのお話しを聞いていただければ、と思います。

竹野はいいぞ~!!
竹野のいいところは、遊びと暮らし。僕にとって生きていることが遊び、仕事と遊びの区別がつかないところ。

宇日(うい)の活動を駆け足で紹介します。
宇日(うい)は、四季いつでも美しいけど春はとくに美しい。ジオカヌーが楽しめます。6月にはスノーケリングが始まり、海藻だらけ。7月には雨がたくさん降って海に注ぐ滝が見られます。8月には村岡高校の地域創造学科の生徒も来てくれます。9月は長距離、カヌーで一番長いコース15㎞を行きました。浅いところに熱帯魚のいる世界が宇日。
フランス語のoui(ウィ)、We(ウィ)are the world なんです。

猪と鹿のソーセージ。(いのしし)は一番(いの)美味しい肉(しし)という意味。

鶏を飼っていて、大寒卵(だいかんたまご)は、冬の一番寒い時に産む希少価値のあるもの。卵の写真が世界中でインスタグラムが大流行していたみたいで、まるでうちの卵の写真が世界中を巡りまわっていたみたい。(笑)

私の目指しているところ
私の職業はネイチャーガイド、自然体験教室の企画実践。目指していることは、身の回りの生き物の記録。生き物の名前はみんな知りたいです。

自給自足的有畜小農。田舎暮らしの聞き書き。宇日のおばあちゃんたちに集まってもらって暮らしをしゃべってもらう。生き延びるための等身大の技術を伝える伝承と普及。例えば、火が起こせる、竹が切れる、木が切れる。昔の人が当たり前にやっていたことが出来る人が減ってきているので、子どもたちに伝えたいなと思っている。

司会:
生き物の暮らしとかの話しだと、本庄さんは、蜘蛛(くも)博士ですよね。自然を相手に遊んでいるところがすごいですね。

僕の人生、蜘蛛(くも)が好き。蜘蛛の巣を張るものや張らない蜘蛛タイプのものもいます。アカイロトリノフンダマシ。可愛らしい蜘蛛。高校の時に夢中になっていた蜘蛛。竹野町小丸に夕方行って蜘蛛を観察していました。綺麗でしょう。目玉模様でびっくりさせるものなのかな?諸説あります。

今は自給し、小家畜と暮らす有畜小農
山羊(ヤギ)をずっと飼っています。僕を見るとシッポを振る。自分の食べ物は自分で作って、小動物を飼っているので、うちはゴミがないです。どうかしたいときは山羊のモモちゃんに。何に使うか?除草です。冬は笹や豆がらを食べます。糞をすると肥料になる。循環しています。牛乳を買うことはありません。ヤギ乳ばっかり、余ったらチーズを作ります。

鶏を飼っています
自分で育てた鶏の卵で卵かけごはんを食べたい。鶏を孵化させるところから半年かけて実現しました。ドレミファという名前。

鶏飼いも長い。出石からもらってきた鶏のオスには最初から名前をつけようと、「から揚げくん」「ローストチキンくん」「サムゲダンくん」、目標が決まっています。いじめられていた一番小さい鶏が最後まで残っていて、鳴き声は「じゃじゃじゃじゃーん」、ベートーベンみたいに鳴きます。

お米を作って、ドリンクも作っています。大豆畑。生育したらワインの瓶で豆を収穫。麦を炒り、石臼で挽いて麹を振りかけ、水を入れる。何ができると思いますか?醤油です。竹野のイカを自家製醤油で食べる。おいしいですよ。

大豆を炊いて、麹、塩を加えて団子にする。何ができるでしょう。味噌を作る。小麦は自家栽培していません。みんな雀(スズメ)の餌になってしまったからです。

生き物たちが教えてくれる
どこにも必ず生き物が生息している。生き物との共存。興味が持てないことがない。生き物にはそれぞれ群集があってコミュニティを作っている。一つのものがいるわけではなくて、食べるやつがいれば、それを食べるやつもいる。そのコミュニティを見ていると、それぞれ特徴が出ている。田舎には田舎の、里山には里山の。高い山には山のワンセットがいる。気になってしょうがない。

川ならその川の持っている健全性を示しています。このワンセットがいれば、この川、めっちゃええ川やん、ということになる。他の川に行って、あいつとあいつが居れへんな、ちょっとこの川やばいんちゃう。というような見方ができる。そういうのを環境指標、生物多様性。僕が大学の時に論文として、これを書いたのですが、クモの多様度、土壌性クモの多様度。

そういうことを常に意識せざるを得ない。農業していてもそう、子どもと遊んでいてもそう。生き物からのメッセージ、自分はそのメッセージを受け取ることが出来ているからだ。といつも思います。

子どもたちとの活動のきっかけは、小学校の校長先生から子どもら集めて何か面白いことをしてくれへんか?という依頼があった。大草原の小さな家のローラの物語を参考にして、石鹸をつくる。肉を焼く、油が灰にジュウジュウ落ちてくる。それを固めると洗い物の石鹸になる。スジ肉や脂身で子どもたちと石鹸を作ったのが始まり。

公民館からお声がかかり、子どもとやることが楽しい。たけのこ学園、スノーケルセンターでは土曜観察会から始まり、市が合併して子どもの野生復帰や環境学習に。生き物は遊びにとって必須で、不可欠なこと。生き物のとのふれあいは、核心の部分、ハートがある。

無名なものが好き
人があまり(研究を)やらないものが好き。蝶々(ちょうちょ)がおもしろいと今頃気づいた。土の下のゲテモノが好き。トビムシ、ササラダニ。目の代わりになっている胴感毛。日の目を見ないもの。何億といる。土の落ち葉を食べるダニ。私の興味の対象。目のないもの。土壌動物。

川の生き物。10月になったら見られるもの。鮭もそろそろやってくる。あゆかけ、石化けの天才。子どもの頃、自転車のスポークを直角に折り曲げて、竹に挿して、ゴムがないから、パンツのゴム。ヤスを作り、魚を捕まえていた。あゆかけを捕まえた時の感動。福井県では研究するところがないので、今年も竹野川に来ている。ヤツメウナギもいる。竹野では川と海を行ったり来たりする名前のない生き物いる。絶滅危惧種がたくさんいる。川歩きを増やすことが川を守ることにつながる。

里山の生き物~人の暮らしと共に~
猪(いのしし)が暴れた跡にコウノトリが来ている。草刈が出来ているところに彼岸花が見える。草刈が出来ていないところは、姿を隠している。ハクビシン、今年はトマトが食べられなかった。柿の中身だけなかったから、餌にして仕掛けたら捕獲できた。

次は、海の生き物。2005年の朝、渚に100匹エチゼンクラゲが揚がっていた。死滅回遊魚が竹野にはいます。アメフラシ、食べられる。イルカが100匹来ている。カツオカンムリ、イカナゴは、夏は砂に潜って寝ている。ヤマトメリべはウミウシの仲間。近寄るとグレープフルーツの匂いがする。

ひかる生き物がいろいろいます。ウミボタル、ミジンコの一種。夜光虫はプランクトンで5月の波が止まる時に夜、光ります。リュウグウノツカイの隣に寝そべっている彼はレシピとして1冊の本を書いた。個人的にはオレンジの肝が美味しかった。

里山のかかえている問題(イノシシ、シカが増えている・・・)

しばらくペーパー猟師だったが、罠、くくり罠を広い場所にかけるとかなりの確率で猪(イノシシ)が掛かっている。この大きい猪と5時間格闘した。やがて肉になる。かなりの人が助かる。シシかつ、シカとイノシシをミックスしたソーセージ、シカは竜田揚げ、イノシシのバラ肉はお好み焼きにするとうまい。

バイオリージョナリズム(生命地域主義)
人間の暮らしている場所と川、里山、田畑、一つの循環系(生態系)で生きているという感じ。竹野をつくっている。

語り部たちから教わる。
直撃インタビューを広報紙に載せていた。原稿にしたことは少しだが、たくさんの話しを聞いてきた。70代の人はあまりにも何も知ってない。80代以上の人がモノを知っている。炭焼きの人、海藻で鶏を育てている人、北野屋さん牛飼いの方・・・。

背負子の編み方、知っている人がいない。みなさんの知識はお一人が図書館1~2館分くらい、市がそろそろ記録をとらないと。身の回りの自然をしっかりと把握して暮らす。 僕たちにとって、5km圏内の話、台風や風で塩が飛んでくる。毎日知らないことばかり。毎日散歩しているところに現れる。

ナマコの茶漬け。うまいぞ~。海藻のソゾ。春の野草を食べる会。夏は、サツキマスをスモークして、パスタに。子どもたちと鮎を突く。60℃の石の上でアユを開き干しに。

 海藻は目の前にうじゃうじゃ。赤いのがスギノリ。うまい!カヌーの長距離の時は、途中でカメノテとスギノリで味噌汁。オコゼは刺されるということもあるが、オコゼ汁、刺身まで。

子どもたちと竹の切り方、利用の仕方。「ノコギリを持ってきてくださいなんて」授業はないでしょ。「明日から3日間水路を掘ります。現地集合、泊まってもいいです。」って学校があればいいのに(笑)こんど養父市でロケットストーブやります。ロケットストーブでサザエのつぼ焼き、調味料はいりません。海水だけで美味しい。

 昨年までものすごくきれいな散歩道だったのに今年は荒れてしまっている。管理している方が入院されているようで、外来植物がチャンスを見つけてパイロット的にどんどんやってくるという事態が起きている。1年起ったら・・・10年先が見えてしまう。本来なら雪が降って、色々ものが鎮圧されてリセットされて次の春の順番待ちしているが、草刈がしてないと、今までと変わってくる、という残念な未来が見えてくる。

さあ 遊ぼうぜ!

私たちの暮らしが景観をつくる
耕作放棄地がどんどん増えて来ていて、どうするかというのがこれからの鍵になります。これも耕作放棄地、これからは子どもたちにどんどんビオトープで遊んでもらう。荒れ放題だけど、川を歩くだけで川がきれいになる。歩くだけ、歩く川掃除。遊びましょう。但馬で暮らす。遊びながら暮らす。生き延び方を子どもたちに教えないと、我々の未来はない。子どもたちの未来もないと思います。

カニがスマイルで言っています。

#57(記録)「ビールの時間ですよ〜」川面克行 氏

2019年6月21日
テーマ: 「ビールの時間ですよ~」
ゲスト: 川面克行氏 (アサヒグループホールディングス株式会社 社友)

アサヒビールの醸造部長としてビール一筋に歩み、副社長まで務められた川面さんに「これぞビール」を語っていただきました。

ビール豆知識
ビールに使われる麦は二条大麦。ホップはすべて雌株を使用します。日本で主流の生ビールは熱処理されていないビール。ではラガーは熱処理されているのかというと関係なく、低温で長期醸成されるビールがラガービールと呼ばれます。ビールの小売価格の45%は税金。ビール造りは古代エジプトで5000年前に始まりましたが、日本に伝わったのは江戸時代。

ビール瓶が茶色く着色されているのは、ホップ成分と紫外線の化学反応によって日光臭という不快な臭いをふさぐため。瓶ビールの633mlという容量は、は昭和15年の酒税法制定の際に当時使用されていた一番小さいものに統一して決まったものです。酒類のテレビCMは午前5時~午後6時まで自粛するとビール酒造組合の自主基準で決められています。

「ここでクイズ10問です」と。
ビールに関するクイズで一気にビールの世界へ!
知らないことだらけでした!

グラスに注いだビールの泡を少しでも長持ちさせるには?

皆さん興味津々。
少し上から注ぐ、しばらく待つ。うまく傾けて下の液だけ飲み、注ぐ。また下の液をすすりなおし、もう一度注ぐ。泡の上にタンパク質の粒子を作らせることで泡が長持ちするんだそうです。是非やってみてください!

ビールの起源は諸説ありますが、紀元前3000年メソポタミア地方のシュメール遺跡から記録が出ています。腐ったパンの汁のようなものをすすっていたようです。その後、バビロニア、エジプト、北ヨーロッパにも伝わり、中世になると教会や修道院でビール造りが広まります。そのうち、原料にホップが使われるようになりました。

1516年、ドイツバイエルンで「ビール純粋令」が交付され、ビール原料は麦芽、ホップ、水、(後に酵母)以外のものを使ってはならないとされました。当時のビールはメルツェンタイプで、夏場、衛生上の理由でつくることができませんでしたが、19世紀以降、リンデの冷凍機(低温熟成四季醸造が可能に)、パスツールの低温殺菌法(腐敗防止、工業製品化)、ハンセンの酵母純粋培養法の開発で、ピルスナータイプビールの製造が可能になりました。

ビールの歴史をちょっと振り返って
日本では、1853年に川本幸民が自宅で試醸したと言われます。1870年のスプリングバレーブリューワリ(…→キリンビール)を皮切りに、1876年に開拓使麦酒、1872年に渋谷ビールなど、各地に醸造所が立ち上がりましたが、合併を経て一時は大日本麦酒が75%の圧倒的なシェアを持つようになりました。しかし、過度経済力集中排除法により、1949年、大日本麦酒が日本麦酒(→サッポロビール)と朝日麦酒(→アサヒビール)に分割されます。3社の寡占が続いていましたが、1963年のサントリービールにチャネルを開けたことでアサヒビールは窮地に陥ります。熾烈なシェア争奪戦のなか、アサヒビールが夕日ビールと呼ばれるように。

新しい概念のビール
新しいビール、スーパードライのコンセプトは、辛口。DRYでした。これを技術翻訳すると、ビールの最終発酵度を上げる、アルコール度数を上げる、苦みを抑え苦みの質を上げるということになります。他社との差別化を図る決め手は酵母です。使用する酵母、原料の配合、仕込み条件などを吟味する必要があります。しかし、技術や伝統を変えることは簡単なことではありません。相当な設備投資も必要になるほか、酵母を変えることのリスクも読み切れません。

新商品は完成しましたが、経営会議ではリスクを背負うことに反対が多く、とりあえず100万函のみ販売してよいとの許可が出ました。昭和62年3月に発売し、その年に1350万函を売り切りました。当時の樋口社長が、金のことは心配するなと、1兆4000億の借金で設備投資し、工場設備能力を増強してくれました。

酵母が麦汁中の糖分を全部取り込んで分解すると雑味がなくなり、辛口になります。他のビールは甘味がけっこう残っていたので、消費者にすっきりわかってもらえました。アルミの地肌をそのまま使ったデザインもハマりました。中身と言葉が一致しているということで、最初は落合信彦のイメージ。その後、主飲者がおじさんから若い男性、女性に変わってきたことで、女性客の取り込みが必要になり、福山雅治にキャラクター交代しました。

スーパードライ発売から32年が経ちましたが、ビール香味の劣化との闘いは永遠の課題です。また、常に同じものをつくることの難しさもあります。ブランド力の維持、技術や技能の継承も課題です。今の若い人はソフトの使い方はわかっても、ビールの味がわからないからです。

ここからが本題。あなたは上手にお酒と付き合っていますか?
アルコールは胃から20%、小腸で80%吸収され、血液中で最後は炭酸ガスと水に変わっていきますが、早く変わる人、なかなか分解が進まない人があります。実は、分解能のあるなしは、血液中の酵素をつくれる遺伝子があるかどうかで決まっているのです。

アルコールが脳にどんなふうに作用するかご存知ですか。(抑制を司る)大脳皮質にアルコールが入ると抑制が解かれ、日頃と違う朗らかさが出たりします。(運動を司る)小脳から(記憶を司る)海馬に入ります。衝撃を受けると海馬が揺れて強い記憶となりますが、海馬にアルコールが入ると記憶がなくなります。その後、(生命維持を司る)脳幹に入ると、自動的な呼吸などができなくなることもあります。

お酒の強くない人はアルコールを分解できないので、脳幹まで行ってしまう恐れがあります。お酒は食事と一緒に飲むと、血中濃度の上がり方が緩やかになるので、食事と一緒に飲みましょう。

お酒に強い遺伝子を持っているかどうかは、エタノールパッチテストでわかります。エタノールを含ませた絆創膏を皮膚に貼り、7分後にそっとはがして、色が付くかどうか見てみます(A)。
そして、もう一度貼り戻し、また色を見ます(B)。

チェックポイントAで赤くなった人は、お酒を飲めない体質。
チェックポイントBで薄い色が付く人は、お酒に弱い体質。
チェックポイントA、Bで変化がなかった場合は、普通に飲める体質です。

アルコール依存症について
大ビン3本を毎日10年間飲み続けるとアルコール依存症になる可能性があります。鬱とアルコール依存症は同じように始まります。飲める人は特に注意が必要です。飲んだ量を少なくごまかして過少申告する人は、お酒に対する罪悪感があるということで、依存症の危険があります。依存症の見極め方の一つですので、注意してください。

ビールを愛するがこそ、心身を壊すことなく楽しんでほしいという川面さんのビール愛がひしひしと伝わってきました。

#56(記録)「食からもう一度健康を見直しましょう〜なぜ磁性鍋が生まれたか〜」河野武平

2019年5月17日
テーマ:「食からもう一度健康を見直しましょう〜なぜ磁性鍋が生まれたか〜」
ゲスト: 河野武平(株式会社性膳 代表)

マイクロ波を波長転換し、安全で自然の味覚を維持しながら調理できるという磁性鍋。磁性鍋の開発に駆り立てられた思いをお聞きしました。

昭和46年ごろから「食」に関わり始めました。昭和46年といえば、マクドナルドが日本に上陸した年です。食材をどうするのか。実はマックが始まって初めてレタスの産地ができました。また、マックは夏場が一番売れることから、真空冷却装置も必要になりました。真空冷却装置は当時日本になかったため中古の装置を入れてみるところから始まりました。最近では上勝町のいろどりにも関わるなど、地域おこしを兼ねた「食」について講演しています。

自然耕房あおきのご主人が亡くなってから、3年間で700日ボランティアに通いました。あの素晴らしい畑を失ってはいけない、食の問題を解決したいという思いからです。

日本はガンの罹患患者が増加しています。亡くなった原因よりも罹患の原因を調べないといけないのですが、そういった調査はありませんでした。2016年に初めて調査が行われ、今年発表になりました。しかし、日本にはデータはあっても読んで解析し、改善しようとする人がいません。

データを見ると、生殖機能に関するガンが急増し、全体の25%にまでなっています。10年前、乳がんや膀胱がんになる犬が多発しました。鴨川の河川敷の除草剤が原因と考え、宮内庁に手紙を書いて中止してもらいました。いま、除草剤を使っていない田んぼ、畑はあるでしょうか。わずか1%しかありません。また、すい臓がんも増加しています。 罹患後の寿命が一番短いガンです。

環境と食事の問題が大きいのですが、マスコミや厚生省はきちんと解析していません。

意味不明な認知症対策
高齢者が施設に入ると認知症が増えます。これは栄養計画に問題があるからです。施設では日本食品標準成分表に基づいて栄養計画がつくられます。栄養士はそこに書かれた栄養成分があると思って献立を作りますが、最近の野菜には書かれているほどの栄養がありません。経済的コスト優先で作られてきたからです。そのため、栄養失調になり、ミネラルの不足で症状が悪化するのです。

オーガニックが良い悪いではなく、イオン化されたミネラルがどのくらい入って栽培されているかが大事です。ミネラルが不足すると脳の起動、回転が遅くなり、認知症がスタートします。大幅な認知症増加について、食の問題なのに指摘されていないのが問題です。

がんは、複合的な自己免疫低下によって起こります。これらの要因を減らしていくことで病気が治る。まず要因を知ってそれを軽減することがすごく大事です。そのなかでも、「口径的な生活習慣からの要因」というのが食の問題です。食について無関心では自分の健康を保つのが難しい時代です。他人任せでも難しい。自分で改善していくためのプログラムを作ることが大事です。

自然のサイクルに沿ったリズムで生活することが大切。まずは空腹をしっかり知ることです。朝起きてお腹が減らないのは最悪です。人間は食べるために働いています。忙しいと言い訳せず、きちんとしたリズムで働き、自分の最適リズムを考えていくよう心掛けるべきです。

世の中には健康雑誌が判断していますが、肥満学会のトップがメタボの典型でがっかり。さらに、製薬会社の団体の支援で学会が形成されていることにも不信感を抱きます。商品を売るための本では、バイブル商法とドクターが結びついています。自分で研究していないことを書くドクターもいます。

高度医療は地域の健康に寄与しているでしょうか。MRIは1台で10億円。償却費、維持費がかかります。病院は、病人が増えないと儲からない仕組みになっています。いかに病気にならないかは大事ですが、他人任せではダメです。

食品関係の問題
生鮮食品が減り、惣菜売り場が増加しています。鮮度の悪いものや、丸ままではなくカットされた食材も多くみられます。味の感覚が落ちた分を調味料でカバーしている状況です。

鶏は180~185日で卵を産み始めます。500日で採卵減少し、廃棄処理されます(廃鶏)。後ろを向かず、土を踏まずに一生を終える鶏もいます。病気にならないように抗生物質がたくさん使われます。食物工場ではほうれん草を25日で作ることができます。こうした結果、農産物の品質が低下しています。経済を優先するからです。東京は人間もこの状態。

ロンドンオリンピックでは、「基本的にオーガニック」が基準でしたが、同じ基準では日本で食材を集めることができません。なぜオーガニックなのかというと、ミネラル補給できる食材でないと選手の体がもたないからです。日本で作られている食材では量を食べてもミネラル不足で選手がもたない。ミネラルはサプリメントではなくイオン化したものを吸収しないと意味がありません。

日本ではオーガニック農産物はわずか1%。あまりにも食材が悪すぎます。農家の側にも責任意識がありません。レベルが落ちている。健全な農産物を作り、供給していく責任意識が欠けていることが大きな問題です。日本は何よりも農業、農産物を変えないといけない。地域おこしは、本当は農業からやるべきです。日本の農業は除草剤と農薬で畑をつぶしてきました。これを改善し、有機農業に向かわないとミネラルや酵素が豊富な健全な農作物はできません。この問題には誰も触れようとしませんが、農業生産のありかたを見直さないと健康は維持できません。

なぜ日本で有機農業が持続できないのか。生産者は既存の農業に慣れすぎています。年金で暮らしている高齢農家ほど既存の農業を選ぶ傾向にあります。若い人が農業を支えないといけません。また、家庭で調理する人も極端に減ってきました。ここも改善する必要があります。オーガニックというのは、生産者と消費者が社会的モラルを共有しないと維持していけません。畑の手間3~4倍かかる一方、収量は半分です。このことを一般消費者と共有していかないと持続できません。サラリーマンもボランティアに行きましょう。

良い食材は畑に出ないと判断できません。一番美味しいときの作物というのは実際には供給できないのです。既存の野菜流通は、約30年前に中央市場の仲卸の人がやりやすいように、儲かるように作られたものなので、まったく新しい野菜の流通が必要です。作物にはもっと美味しい時期があり、微量栄養素の塊のようなものもあるのですが、流通に乗ることはありません。流通を変え、生育過程で眠っているものを起こさなければなりません。これは社会的モラルを共有しないとできないでしょう。

磁性鍋
磁性鍋は、電子レンジ専用の調理器具です。電子レンジは電磁波が出るから危険と思っていませんか。「電磁波」という言葉は、太陽から注がれる波長全部を指します。電磁波がないと、生命が成り立たない。電子レンジの問題は、マイクロ波の波長を使うことです。

電子レンジのマグネトロンは、アメリカで開発され、日本で製品化されました。アメリカ人がレーダーを浴びた時にチョコレートやガムが溶けたことから、調理に使えるとのヒントを得たといわれています。

日本では便利に使われている電子レンジですが、ロシアやドイツでは禁止されています。電子レンジの危険性の研究は日本ではされていません。電子レンジを安全に使うために考えて作ったのが磁性鍋です。酸化還元反応による加熱で古くなったコーヒーが元に戻るなど、21世紀の新しい科学を導入した鍋です。

ガス火力の場合、食材に影響するエネルギーは最大でも20%。その他は空中に飛散します。IHでも40%しかありません。その点、電子レンジはエネルギー転換効率が高いので調理が速いのです。

しかし、電子レンジには大きな問題があります。1つには、分子と分子の回転摩擦熱で温度が上がる性質を利用しているため、タンパク質の分子が切れてしまいます。異形タンパクによって食物アレルギーが起きる恐れもあります。実際、電子レンジの普及でタンパクアレルギーが増加しています。また、トランス脂肪酸や酸化・糖化が増え、ビタミンが半減するなど、栄養が破壊される問題もあります。さらに、溶けたプラスチック容器の成分が食品とともに口に入ることも問題です。

こういった問題を日本ではマスコミが書かないのでみんな知りません。マスコミにとっては家電メーカーが最大のスポンサーだからです。タンパク質のアレルギー疾患はレンジの普及とともに増加してきました。お母さんが電子レンジ調理に慣れすぎると子どもにも影響します。

食品には吸収できる波長が決まっていて、吸収波長でないエネルギーを与えても美味しくなりません。農産物は好天が続くと赤外の波長の影響で美味しくなりますが、吸収できる波長にシフトしてエネルギーを与えると効率的に美味しく調理することができます。一番波長の良いセラミックの中に、還元反応を起こすマンガンフェライトを入れ、吸収したマイクロ波を遠赤外線に転換します。マイクロ波の漏れはなく、全部吸収されます。そのままだとマイクロ波が飛び出す。電子レンジは、携帯電話の40~100万倍のエネルギーを使っています。

美味しい調理は科学的に証明することができます。磁性鍋を使うと、アミノ酸(旨味)が増え、美味しくなりますし、水を入れないので旨味が凝縮されます。だれでも簡単に調理できるので、みんなに調理してほしいです。「料理は科学」と教えると男性もやろうとします。ぜひ自分で調理してください。

#55(記録)「91年生まれ、台湾人」 江欣樺 (京都大学大学院 農学研究科地域環境学科)

2019年4月19日
テーマ:「91年生まれ、台湾人」
ゲスト: 江 欣樺 (京都大学大学院 農学研究科地域環境学科 専攻)

江さんは現在、京都大学農学部大学院生。2014年に台湾大学の大学院学生として、コウノトリ野生復帰について学びに豊岡を訪問。その後もコウノトリ国際会議のプレゼンに来日するなど、豊岡とご縁の深い方です。今回のセッションでは、研究とは離れ、知っているようで知らない台湾について紹介していただきました。

魅力いっぱいの台湾!
台湾は九州ぐらいの面積の国です。大阪から飛行機で2時間ぐらい。去年は200万人の日本人観光客が訪れました。気候は亜熱帯から熱帯です。この狭い国土に3000m超の山が269座以上あり、富士山でも10位ぐらいになります。使用言語が多く、人口グループもバラバラです。台北地下鉄のアナウンスは4カ国語です。

台湾では、太らせることがおもてなし。「こんにちは」は、「ジャバーベイ!(ごはん食べた?)」。24時間365日もぐもぐしています。バラバラでごちゃごちゃなのが魅力。マイペースで自由で、カオスが日常。お寺も選挙も、イベントになってしまう国です。

400年の歴史にほぼ全部外国政権!
17世紀からの400年の歴史は、ほぼすべて外国の政権でした。17世紀、北部はスペイン、南部はオランダでした。その後、明朝遺民、清国、日本と続きます。日本の統治時代には農業生産が増大し、ダムも作られました。1931年には甲子園にも出場しています。1936年から戦時状態になり、皇民化政策が始まります。日本語による教育が行われ、今でも日本語ペラペラのお年寄り多いのはそのためです。1944年には米軍による無差別爆撃(台北大空襲)が行われました。1945年の終戦で、同盟国による代理接収が行われましたが、独立させるのかどうか未定の状態に置かれたままとなり、現在に至る問題となっています(台湾主権未定論)。1945年からは国民党(蒋介石)による統治が始まり、軍事独裁、白色テロ、独立・民主運動とその弾圧などが繰り広げられてきました。

91年生まれ、で?
私の家族を紹介します。

祖父母は日本統治時代に生まれ、平和な時代を過ごしました。国民党嫌いで、政治についてはあまり語りません。

父は、大中国意識を持たされて民主化を追求してきた世代です。民主化と経済成長を体験しました。

91年生まれの私は、台湾の民主社会に生まれ育ちました。91年は、戦争状態の特別制度が廃止された年で、完全に民主制に移行しました。小学生のころ、大統領選挙や初めての政権交代も経験し、政治を取り戻す希望と期待が非常に高い時代でした。2006年には、大統領の汚職事件が全国デモに発展するなど、希望が壊滅しました。また、2008年、中国との関係を深化する政権交代が行われ、中国に飲み込まれる不安が高まりました。メディアが独占され、中国のニュースがガンガン放送されるようになりました。

ひまわり運動 
中国とのサービス貿易協定の批准に向けた審議をきっかけに、若者が国会議事堂を占拠しました。内部は非常に組織的で、その様子はSNSで拡散されました。デモに約50万人が集結した結果、協定は撤廃され、2016年には選挙で国民党が大敗し、民進党への政権交代が起こりました。このことは若者の政治意識を喚起しました。

運動を通じて成長してきた台湾の若者たち。運動のさなかには誇らしげでした。運動は組織的に行われ、ゴミも落としませんでした。「私たちは乱暴な者でなく、自分の未来を手にしたい台湾人だけです」。アイドルグループTwiceの台湾人メンバーによる謝罪事件も若者の愛国心を喚起しました。

生まれつき独立意識が高いこの世代は、「イチゴ世代」「天然独世代」と呼ばれます。台湾は、中国の一部ではなく島そのものが独立した台湾国であると考えています。政治参加にも積極的で、「意識高い系」若者が多いです。

しかし、2014年からの数年はひまわり運動で盛り上がりましたが、2018年の統一地方選・全国住民投票では民進党がぼろ負けしました。国民党の韓國瑜による反エリート、ポピュリズムが蔓延。中国側が政治行動を強めているし、フェイクニュースの影響も大きいです。

そもそもイチゴ世代のような人は少数派で、上の世代からは「外が見れない意識高いエリート」と見られています。逆にイチゴ世代から見ると保守派は「思考能力のない愚かな大人」に見え、世代対立が深まっています。

私自身もそろそろ踏み出そうと思います。友人が国会議事堂にこもっているとき、自分は参加せずに外でサポートしていて、これでいいの?と自問していました。日常会話に政治を話し、家族を説得するところから。情報の正確性をチェックして伝えるなど、絶望する前になんとかできることをしていこうと思います。

政治は、生きることそのものです。経済と政治は実は同じもので、毎日の生活が政治なのです。政府に文句を言う自由を失いたくありません。失われるともう戻れないものなら、みんなで頑張って最後まで守ろうと思います。

#54(記録)「アイヌ文化に惹かれて」吹田バーバラ(甲南大学ドイツ語講師・アイヌ文化研究者)

2019年3月15日
テーマ:「アイヌ文化に惹かれて」
ゲスト: 吹田バーバラ(甲南大学ドイツ語講師・アイヌ文化研究者)

ドイツ出身で神戸にお住いのバーバラさん。1年のうち3か月ほどは北海道でアイヌの人たちと過ごしておられるそうです。なぜそれほどアイヌに惹かれたのでしょうか。

6歳のときにいただいた花瓶に、小さい、着物を着た美人が描いてありました。見たことのない姿に心惹かれ、大切にしていました。アメリカインディアンの映画が流行ったときは、インディアンの衣装がかっこいいと思いました。デュッセルドルフ大学で建築を学びましたが、大学には日本人も多く、アメリカインディアンのような姿や髪の毛だなと思いました。その中の一人と恋に落ちて79年に日本を旅行し、奥深い文化と美しい自然に感動しました。そして結婚して38年になります。
子どもが親離れしたのを機に、ドイツ語を教えながら以前から興味のあった文化人類学を学ぶことにしました。1980年、テレビで偶然関野吉晴さんを見ました。関野さんは人類のたどった道を逆に、先住民族を訪ねながら10年かけて歩いた方です。武蔵野美大で教えている事を知り、学びに行きました。日本の縄文文化と北ヨーロッパの文化が似ていることに驚き、また、縄文とアイヌのつながりがあると新聞で知り、アイヌに興味を持つようになりました。

アイヌの衣装や工芸品を見ると、模様がヨーロッパのギリシャやケルトの模様に似ています。ヨーロッパではなくなってしまっていますが、日本のアイヌでまだ生き生きとしています。

アイヌには、カムイイオマンテというお祭りがあります。アイヌにとって、ヒグマは食べ物と毛皮を授けてくれる神(カムイ)です。その熊をイオマンテで神の国へ送り返す儀式です。実はゲルマン族も熊をとても大事にします。「生まれる」にあたる単語は「ベア(熊)」。ゲルマンとアイヌのつながりを感じます。「アイヌ」は「人間」という意味です。私は日本人にはなれませんが、人間(アイヌ)なんですね。

浦川太八さんのナイフ、マキリです。昔の材料で作ってあります。紐はシカのアキレス腱も使われています。
ドイツの女性は昔、小さなナイフを持ち歩いていました。アイヌのお母さんたちは針と糸。なんでも女性たちの手作りでした。女性たちは朝から晩まで働いていました。フクロウは女性の守り神と言われています。

≪そのほか、バーバラさんがこれまでに収集したさまざまな民芸品や衣装などを見せていただきました。≫

縄文時代の1万年間は戦争がありませんでした。災害があるので助け合わないと生きていけなかったのかもしれません。アイヌはそのころから日本列島に住んでいました。アイヌと沖縄の人はとてもよく似ていて、見分けがつきません。その後、弥生が進出してきましたが、沖縄、東北、北海道に濃い縄文の血が残っているようです。

北海道でも一番アイヌ文化が色濃いのは白老です。まだアイヌ語がたくさん話されています。

亡くなったときは、お墓に埋め、柱を立てます。お参りはしません。こういうところはハンガリーに似ています。

今のお年寄りは差別のひどい時代に生きてきたのでアイヌ語を話せない人が多いです。大学で学んだ若い人がアイヌ文化を継承しようとしています。先住民として国に認められ、近年法整備が進んできました。差別の話もたくさんありますが、今日はアイヌの良いところを紹介しようと思いましたので、その話はしません。今日のセッションが、アイヌに興味を持つきっかけになると嬉しいです。

#53(記録)「オリンピックをもっと深く」治丈太郎 (公益財団法人 東京オリンピック・パラリンピック競技 大会組織委員会 参与)

2018年12月21日
テーマ:「オリンピックをもっと深く」
ゲスト: 上治丈太郎(公益財団法人 東京オリンピック・パラリンピック競技 大会組織委員会 参与)

豊岡市のお隣、香美町ご出身の上治丈太郎さんをお迎えしました。ミズノにお勤めのころからアスリートとともに夢を追い、歩んでこられた上治さんからオリンピックの基礎知識や裏話、アスリートとのお付き合いなどを聞かせていただく、楽しいセッションとなりました。豊岡市ではスポーツ特別アドバイザーに就任されています。

国際オリンピック委員会(IOC)とは
1894年(明治27年)にクーベルタン男爵を中心にオリンピックの復興が決議され、本部をスイス・ローザンヌ市に置くIOCが創設されました。4年に一度開催される世界最大のスポーツイベントとして、いまや206の国と地域が参加しています。IOC会長は一期8年(最大延長4年)。上治さんは1980年に会長に就いたサマランチさんの頃から国際的に活躍されてきました。

2020年東京五輪の現状と課題
2013年、2020年の開催地が東京に決定しました。スローガンは、「Discover Tomorrow ~未来(あした)をつかもう~」です。

本番では1日30万人の訪日が見込まれ、10万室のホテルが必要と見られています。これには客船なども利用して対応することになっています。また、「救急・災害医療体制を検討する学術連合体(コンソーシアム)」を組織するなど、大会期間中のリスクに備えています。

2020年オリンピック・パラリンピックの危機管理上最も大きな課題は、天候との闘いです。ゲリラ豪雨や台風、真夏日/猛暑日の発生が懸念されています。地震についての備えも必要ですし、インフラの対応、中でも交通対策は大きな問題です。交通機関への影響を考慮して、マラソンのスタート時間を早めたり、祝日を移動するなどして対応することにしています。

また、過去のオリンピックでは、テロに脅かされたこともあることから、テロ対策も必要です。1972年のミュンヘン五輪ではパレスチナ・ゲリラによるテロが発生。2012年のロンドン五輪では、テムズ川に軍艦、ハイドパークに迎撃ミサイルが配備されました。2016年のリオデジャネイロ五輪では、警察官のストライキのため軍隊85,000人が投入されました。

大会では33競技324種目が実施されますが、そのうち野球/ソフトボール、空手、スケートボード、スポーツクライミング、サーフィンの5つは今回の追加競技です。野球は、ヨーロッパでルールが知られていないようです。また試合時間が長いことでも敬遠されます。一方、85の国でやっていない近代五輪という種目がありますが、これはクーベルタンが作った種目なので、外されることはないそうです。

大会期間中、NOCハウスと呼ばれる各国のホスピタリティ・ハウスが設置され、自国のビジネスプレゼンテーションを行ったりするのも楽しみのひとつです。

オリンピックとスポーツビジネス・マーケティング
オリンピックで使用するスポーツ用品には、通気や空気抵抗などについての細かい規定があります。また、ウェアなどに付けるメーカーロゴも、競技団体によっては上の方に付けてはいけないなど、細かい規定があります。

契約した選手が好成績を上げることは、メーカーにとって大きなビジネスチャンスにつながるため、熾烈な開発競争が繰り広げられてきました。偉大な選手たちは契約したメーカーと二人三脚でスポーツ用品やウェアの性能を追求し、スポーツ品市場を変革させてきました。上治さんはミズノのスタッフとして、価値、イメージ、レガシーをビジネスとどうリンクさせるかに心を砕きながら、数々の有力選手と契約を結び、さまざまな角度から親身に選手を支え、信頼を得てきました。どの競技においても、選手の皆さんは本当に努力をしていると称えておられました。

さて、2020年7月24日の開会式まであと581日。一人ひとりがどんな風にこの日を迎えるでしょう。

この日までに、自分が、家族が、企業がどう生まれ変われるか?何かを成し遂げるか?ワンカップ酒のようにそれぞれが何かに挑戦しながらこの日を迎えるのはどうでしょうというのが、上治さんのお勧めでした。

#51 (記録)「お茶の話」沢村信一 (元・伊藤園中央研究所)

2018年10月19日
テーマ:「お茶の話」
ゲスト:沢村信一(元・伊藤園中央研究所)

飲用法の変遷~茶葉と飲み方の変化~

会社では分析や研究といった理系のお仕事をされていた沢村さん。お茶の勉強会に行っても歴史をわかる人がいないので、ご自身で勉強を始められたそうです。

■お茶について
現在、われわれが飲んでいるお茶は、
煎茶 一般には、1738年永谷宗円による「宇治製煎茶」から
抹茶 一般には、1211年栄西「喫茶養生記」による記載が抹茶法の始まり
されています。

茶は、つばき科の低木です。学名Camellia sinensisからつくったものがお茶とされていますが、Camellia taliensisからもお茶が作れます。成分として、カフェイン・カテキンを含んでいます。『茶経』に「茶は南方の嘉木なり…」とありますが、原産地は中国雲南省・ビルマ北部・タイ北部の三江併流地域です。この辺りは氷河期に凍らなかったところであり、多くの動植物の原産地となっています。茶葉の大きさで中国種とアッサム種に分類され、アッサム種はカテキン含有量が多く、紅茶に適しています。

カテキンを含む植物には、柿や青りんごがあります。これらは熟すと重合して渋くなくなります。カテキンが残ったまま食されるのはお茶だけです。緑茶、紅茶、ウーロン茶など、様々なお茶がありますが、元は同じお茶の葉です。発酵(酸化)の度合いや製法によって種類が変わってきます。

お茶は次のような工程で製造されます。
1. 摘採  手摘み1芯2~3葉  機械は4-5葉
2. 送風・加湿
3. 蒸熱
4. 冷却
5. 葉打ち
6. 粗揉(そじゅう)
7. 揉捻
8. 中揉
9. 精揉
10.乾燥  水分含有量 5%に

日本では年間8万トン製造されています。

茶色の語源は「茶」。中世までのお茶は茶色でした。日本で昔から使っていた色は、赤青黒白。そのほか、萌黄、紅色など、四季の植物や花、鳥や動物の色に由来する日本独特の色名があります。

茶釜の湯の音や泡も、自然のものにたとえられてきました。
煮え音: 遠波⇒松風⇒雷鳴
見た目: 蟹眼⇒魚眼⇒連珠
利休も、蚯音(きゅうおん:みみず)、蟹眼、連珠、魚眼、松風といった言葉を使っています。

■間違った情報
・テアニン(アミノさんの一種)はお茶のうまみ成分である。
テアニンは、お茶のアミノ酸の45%ですが、うまみの閾値が高くなく、茶のうまみへの貢献度はそれほどありません。
・ほうじ茶は、カフェインが少なく、老人、子供、妊婦でも引用可。
実際のカフェイン量は10%から20%ほど低いが、それほど低いわけではありません。ただし、安価な番茶(秋冬番)などは普通煎茶と比較して50%程度になる場合もあります。ほうじの度合いが高ければカフェインは少なくなります。

■中国の茶の飲用法の変遷
中国では、唐代770年ころ、『茶経』(陸羽)が書かれたころからお茶が広まりました。日本へは、遣唐使を通してこの頃に渡来したといわれています。

唐・宋を通じて、茶は塩とともに専売品であり、莫大な利益をもたらしました。周辺国へはもちろん、シルクロードを通じて西域へも輸出されました。茶は絹に次ぐ交易品でした。

陸羽(唐代)が記した『茶経』は、お茶のバイブルと言われる本で今でも研究対象となっています。それによると、餅茶(銭型の茶)を茶てんで粉砕し、湯を沸かした鍋に入れ、その上澄みを飲んだとされています(煎茶法)。

宋代になると、餅茶(団茶)を刀で削り、茶てんで粉砕し、茶筅を使って練り上げるようにしてから薄めて飲みました(点茶法)。これは上流階級の茶の飲み方で、庶民の茶については記録がほとんどありません。散茶を茶磨(ちゃうす)で粉砕して飲んだと思われます。宋代に茶磨(ちゃうす)が発明され、これが日本の茶の湯に導入されました。

「青唐の馬四川の茶」と言われるように、中原では馬が飼育できないため、西夏の馬と、宋の銀、絹、銭、茶が取り引きされ、「茶馬交易」と呼ばれました。

明代になると、団茶が非常に高価で製造にも手間がかかることから製造が禁止されました(価格は散茶の数倍から20倍程度)。ここから、茶を粉末で飲用する文化がなくなり、煎茶へ移行しました。

■日本における茶の飲用法の変遷

815年の『日本後記』には、嵯峨天皇に茶を煎じて奉ったという記述があります。816年には最澄が空海に茶十斤とともに手紙をしたため、最後の遣唐使(838年)円仁は「入唐求法巡礼行記」を記しました。

鎌倉時代には、栄西が三代将軍源実朝に二日酔いの薬として茶を献上し、体に良いことや製法が書かれた 『喫茶養生記』を一緒に献上したと『吾妻鏡』に記されています。お茶が日本で流行したのは、この後、13世紀後半以降と思われます。

国内にいくつかの茶磨(臼)が現存しています。大和郡山城では城壁に茶臼が使われています。このあたりには石が少ないのでいろいろな転用石の1つとして茶臼が使われたと思われます。
佛隆寺の茶臼は空海が持ち帰ったとされる茶臼ですが、花崗岩製です。花崗岩は硬いので、空海の時代には加工技術がありませんでした。江戸以降のもののはずです。

出石町袴狭からは、出石茶筅(宮内堀脇茶筅)が出土しています。戦国時代の茶筅は7本出土しており、形が残っているものは2本。そのうちの1本がこれです。年代はよくわかりませんが、山名氏と織田軍の戦いときと考えると、1569、1574、1580年のいずれかではないでしょうか。

岩倉城跡出土茶筅(1559年)は、年代が確定できる一番古い茶筅。一乗寺谷遺跡出土茶筅(1573年)は、年代が確定でき形状が保たれている最古の茶筅です。これらはすべて、織田信長に攻められて滅びたときに埋もれたものです。

■茶の湯と煎茶

茶の湯は、信長、秀吉、家康が政治に使ったことから広まりました。信長は、名物狩りを行って古今の茶器を集め、領土の代わりに褒賞として使いました。

茶頭の流れを見ると、千利休は、名物や絢爛に反発し侘茶を大成しました。古田織部は、武士の茶(ほうげもの)を目指しましたが、家康によって切腹させられたので江戸時代に脚光を浴びることはありませんでした。ふたりの切腹を見てきた小堀遠州は「綺麗さび」として知られています。

明治維新になると、士官していた大名家や武士がなくなり、茶の湯の家元が困窮しましたが、女子教育の一環として再び盛んになりました。

■煎茶への流れ

隠元が明から鉄の釜で新芽を炒る釜炒り茶の製茶法を伝えます。また、18世紀に永谷宗円が宇治製蒸し茶を発明したとされますが、本人が書いたものはありません。実際に煎茶が飲まれるようになったのは江戸末期です。

小型の茶碗(湯呑)が現れるのは18世紀後半になってからで、それ以前の茶碗の底には擦過痕がみられます。これは、 マッチ棒のような茶筅を振って飲用したためと考えられます。

■茶と食生活

和食はユネスコ無形文化遺産に登録されました。「日本人の伝統的な食文化」ということですが、食事に重要な役割を果たしている「茶」も登録を目指しています。

和食の発祥は、室町時代の本膳料理、庖丁式で、これが懐石料理につながっています。和食文化の成立以前、食事は本来人間が生きていくためのエネルギーを摂取することが目的で、そこにはだんらんの場やリラックスの概念はありませんでした。

鎌倉以前の茶は、薬として中国から伝わり、庶民には広がりませんでした。室町以降は、遊興、だんらんの一環として、上流階級や庶民に広がりました。

戦後の貧しい時代を脱却し、豊かな時代への過渡期となった1970年代には、ファーストフード、ファミリーレストラン、コンビニが登場し、さらにはレトルトフードなどの調理革命が起こりました。調理の簡略化とともに個食(孤食)が問題視され、家族の団らんも崩壊しました。「豊食」から「飽食」に移った時代でした。この時代に日本人は、飢餓感、季節感、ハレ・ケの区別、食事規範などを失いました。40歳以下の人たちはそれ以前を知らずに育っています。お茶の消費量も減少しました。

振り返ると、お茶の飲み方は400年ごとに変わってきました。1200年前に日本に茶が伝来し、800年前から抹茶文化がもたらされ、400年前には煎茶の製造が始まりました。そして、現在。ペットボトルのお茶や、茶殻の出ないインスタントの粉末茶が登場しました。お茶を簡便に飲む方法は昔からありました。集大成がペットボトルなのかもしれません。