#51 (記録)「お茶の話」沢村信一 (元・伊藤園中央研究所)

2018年10月19日
テーマ:「お茶の話」
ゲスト:沢村信一(元・伊藤園中央研究所)

飲用法の変遷~茶葉と飲み方の変化~

会社では分析や研究といった理系のお仕事をされていた沢村さん。お茶の勉強会に行っても歴史をわかる人がいないので、ご自身で勉強を始められたそうです。

■お茶について
現在、われわれが飲んでいるお茶は、
煎茶 一般には、1738年永谷宗円による「宇治製煎茶」から
抹茶 一般には、1211年栄西「喫茶養生記」による記載が抹茶法の始まり
されています。

茶は、つばき科の低木です。学名Camellia sinensisからつくったものがお茶とされていますが、Camellia taliensisからもお茶が作れます。成分として、カフェイン・カテキンを含んでいます。『茶経』に「茶は南方の嘉木なり…」とありますが、原産地は中国雲南省・ビルマ北部・タイ北部の三江併流地域です。この辺りは氷河期に凍らなかったところであり、多くの動植物の原産地となっています。茶葉の大きさで中国種とアッサム種に分類され、アッサム種はカテキン含有量が多く、紅茶に適しています。

カテキンを含む植物には、柿や青りんごがあります。これらは熟すと重合して渋くなくなります。カテキンが残ったまま食されるのはお茶だけです。緑茶、紅茶、ウーロン茶など、様々なお茶がありますが、元は同じお茶の葉です。発酵(酸化)の度合いや製法によって種類が変わってきます。

お茶は次のような工程で製造されます。
1. 摘採  手摘み1芯2~3葉  機械は4-5葉
2. 送風・加湿
3. 蒸熱
4. 冷却
5. 葉打ち
6. 粗揉(そじゅう)
7. 揉捻
8. 中揉
9. 精揉
10.乾燥  水分含有量 5%に

日本では年間8万トン製造されています。

茶色の語源は「茶」。中世までのお茶は茶色でした。日本で昔から使っていた色は、赤青黒白。そのほか、萌黄、紅色など、四季の植物や花、鳥や動物の色に由来する日本独特の色名があります。

茶釜の湯の音や泡も、自然のものにたとえられてきました。
煮え音: 遠波⇒松風⇒雷鳴
見た目: 蟹眼⇒魚眼⇒連珠
利休も、蚯音(きゅうおん:みみず)、蟹眼、連珠、魚眼、松風といった言葉を使っています。

■間違った情報
・テアニン(アミノさんの一種)はお茶のうまみ成分である。
テアニンは、お茶のアミノ酸の45%ですが、うまみの閾値が高くなく、茶のうまみへの貢献度はそれほどありません。
・ほうじ茶は、カフェインが少なく、老人、子供、妊婦でも引用可。
実際のカフェイン量は10%から20%ほど低いが、それほど低いわけではありません。ただし、安価な番茶(秋冬番)などは普通煎茶と比較して50%程度になる場合もあります。ほうじの度合いが高ければカフェインは少なくなります。

■中国の茶の飲用法の変遷
中国では、唐代770年ころ、『茶経』(陸羽)が書かれたころからお茶が広まりました。日本へは、遣唐使を通してこの頃に渡来したといわれています。

唐・宋を通じて、茶は塩とともに専売品であり、莫大な利益をもたらしました。周辺国へはもちろん、シルクロードを通じて西域へも輸出されました。茶は絹に次ぐ交易品でした。

陸羽(唐代)が記した『茶経』は、お茶のバイブルと言われる本で今でも研究対象となっています。それによると、餅茶(銭型の茶)を茶てんで粉砕し、湯を沸かした鍋に入れ、その上澄みを飲んだとされています(煎茶法)。

宋代になると、餅茶(団茶)を刀で削り、茶てんで粉砕し、茶筅を使って練り上げるようにしてから薄めて飲みました(点茶法)。これは上流階級の茶の飲み方で、庶民の茶については記録がほとんどありません。散茶を茶磨(ちゃうす)で粉砕して飲んだと思われます。宋代に茶磨(ちゃうす)が発明され、これが日本の茶の湯に導入されました。

「青唐の馬四川の茶」と言われるように、中原では馬が飼育できないため、西夏の馬と、宋の銀、絹、銭、茶が取り引きされ、「茶馬交易」と呼ばれました。

明代になると、団茶が非常に高価で製造にも手間がかかることから製造が禁止されました(価格は散茶の数倍から20倍程度)。ここから、茶を粉末で飲用する文化がなくなり、煎茶へ移行しました。

■日本における茶の飲用法の変遷

815年の『日本後記』には、嵯峨天皇に茶を煎じて奉ったという記述があります。816年には最澄が空海に茶十斤とともに手紙をしたため、最後の遣唐使(838年)円仁は「入唐求法巡礼行記」を記しました。

鎌倉時代には、栄西が三代将軍源実朝に二日酔いの薬として茶を献上し、体に良いことや製法が書かれた 『喫茶養生記』を一緒に献上したと『吾妻鏡』に記されています。お茶が日本で流行したのは、この後、13世紀後半以降と思われます。

国内にいくつかの茶磨(臼)が現存しています。大和郡山城では城壁に茶臼が使われています。このあたりには石が少ないのでいろいろな転用石の1つとして茶臼が使われたと思われます。
佛隆寺の茶臼は空海が持ち帰ったとされる茶臼ですが、花崗岩製です。花崗岩は硬いので、空海の時代には加工技術がありませんでした。江戸以降のもののはずです。

出石町袴狭からは、出石茶筅(宮内堀脇茶筅)が出土しています。戦国時代の茶筅は7本出土しており、形が残っているものは2本。そのうちの1本がこれです。年代はよくわかりませんが、山名氏と織田軍の戦いときと考えると、1569、1574、1580年のいずれかではないでしょうか。

岩倉城跡出土茶筅(1559年)は、年代が確定できる一番古い茶筅。一乗寺谷遺跡出土茶筅(1573年)は、年代が確定でき形状が保たれている最古の茶筅です。これらはすべて、織田信長に攻められて滅びたときに埋もれたものです。

■茶の湯と煎茶

茶の湯は、信長、秀吉、家康が政治に使ったことから広まりました。信長は、名物狩りを行って古今の茶器を集め、領土の代わりに褒賞として使いました。

茶頭の流れを見ると、千利休は、名物や絢爛に反発し侘茶を大成しました。古田織部は、武士の茶(ほうげもの)を目指しましたが、家康によって切腹させられたので江戸時代に脚光を浴びることはありませんでした。ふたりの切腹を見てきた小堀遠州は「綺麗さび」として知られています。

明治維新になると、士官していた大名家や武士がなくなり、茶の湯の家元が困窮しましたが、女子教育の一環として再び盛んになりました。

■煎茶への流れ

隠元が明から鉄の釜で新芽を炒る釜炒り茶の製茶法を伝えます。また、18世紀に永谷宗円が宇治製蒸し茶を発明したとされますが、本人が書いたものはありません。実際に煎茶が飲まれるようになったのは江戸末期です。

小型の茶碗(湯呑)が現れるのは18世紀後半になってからで、それ以前の茶碗の底には擦過痕がみられます。これは、 マッチ棒のような茶筅を振って飲用したためと考えられます。

■茶と食生活

和食はユネスコ無形文化遺産に登録されました。「日本人の伝統的な食文化」ということですが、食事に重要な役割を果たしている「茶」も登録を目指しています。

和食の発祥は、室町時代の本膳料理、庖丁式で、これが懐石料理につながっています。和食文化の成立以前、食事は本来人間が生きていくためのエネルギーを摂取することが目的で、そこにはだんらんの場やリラックスの概念はありませんでした。

鎌倉以前の茶は、薬として中国から伝わり、庶民には広がりませんでした。室町以降は、遊興、だんらんの一環として、上流階級や庶民に広がりました。

戦後の貧しい時代を脱却し、豊かな時代への過渡期となった1970年代には、ファーストフード、ファミリーレストラン、コンビニが登場し、さらにはレトルトフードなどの調理革命が起こりました。調理の簡略化とともに個食(孤食)が問題視され、家族の団らんも崩壊しました。「豊食」から「飽食」に移った時代でした。この時代に日本人は、飢餓感、季節感、ハレ・ケの区別、食事規範などを失いました。40歳以下の人たちはそれ以前を知らずに育っています。お茶の消費量も減少しました。

振り返ると、お茶の飲み方は400年ごとに変わってきました。1200年前に日本に茶が伝来し、800年前から抹茶文化がもたらされ、400年前には煎茶の製造が始まりました。そして、現在。ペットボトルのお茶や、茶殻の出ないインスタントの粉末茶が登場しました。お茶を簡便に飲む方法は昔からありました。集大成がペットボトルなのかもしれません。

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